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レッドタートルと志村けんのだいじょうぶだぁ 

レッドタートルを鑑賞。

まずアニメーションとして素晴らしく、
動きと背景、動く絵に込められた
様々な思いを感じずにはいられなかった。

レッドタートルは、
一切セリフなし、音楽で盛り上げる、一人の男の人生を書き切る作品である。
以前同じようなものを見たことがあると思ったら、
志村けんのだいじょうぶだぁでやっていた、通称シリアス無言劇だと思い出した。

シリアス無言劇。
コントではなくドラマ仕立て。セリフが一切なく、
主に宗次郎の「悲しみの果て」を使用したBGM。
そして一人の人間を中心とした人生を描く(主に悲劇で終わることが多い)。

笑わせるコント番組で、あえて感動させる勝負に出た志村けんの真骨頂の企画である。

もちろん違いはある。

レッドタートルは寓話的な世界観と舞台(島)であり、
メタファーで作品が作られている。
シリアス無言劇は日本が舞台であり、
現実に根ざした設定で作られている。

ただどちらも人間を描くことに向き合っていて、
セリフがないことで見る側の想像力が喚起され、
その想像力がBGMの力によって、
さらに膨まされる構造になっていると思う。

子供の時に志村けんのシリアス無言劇は、
今でも強く心に残っているが、
もし子供の頃にレッドタートルを見ていたら、
どんな風に思ったのだろうか。
 
レッドタートル。見てほしいアニメーションだ。
 
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[ 2016/09/29 21:10 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

キャラの名前から考える「聲の形」 

はじめに

「聲の形」について。

koeno.jpg

漫画原作は2014年に完結しているので既に指摘されていることばかりだと思うが、
キャラの名前と本作の関係性について、まとめてみたい。

① 聲

声=本作のテーマを表す文字
音の声には留まらない。

音読みで「ショウ」とも読むが、
この場合石田将也の「ショウ」、西宮硝子の「ショウ」の読みと符合する。

聲の文字の左上部分の「声」は
板をぶらさげてたたき音を出す楽器、殸(けい)の象形。
本作と照らし合わせると、
石版から石田将也に繋げられる。

下半分の耳は、耳が聞こえない西宮硝子にそのまま当てはめられる。

聲という文字自体から、石田翔也と西宮硝子を接続しているようにも見える。

② 石田 将也

石田将也の「将」は「将軍」という文字もあるように、
本作の集団のリーダー(的)を示しているようにも思える。

音読みでは「まさ」と読み、「これから…しようとする。」という意味がある。
物語は将也が「これから『西宮に許しを請うこと』をしようとする」話でもあり、
石田将也が「これから…しようとする。」ことで展開する物語なのである。

アニメでは描かれなかったが、漫画原作では主要キャラの「将来」が描かれ
この「将来」と「将也」も繋がっているのだと思われる。

「石田」の「石」は、子供時代に西宮硝子に石を投げていたことにも繋がる。
ガラス=硝子=西宮硝子の天敵、それは石であり「石田」。

③ 西宮 硝子

硝子はそのままガラスであり、
ガラスのように透明で固いが、割れやすい心を持つ。

硝の字は鉱物の名前であり、火薬の原料となり、火薬は花火を作るもとになる。
本編では、花火大会後に西宮硝子は自殺を試みているが、
つまり花火は鉱物:硝にとっての終わり(死)であり、
これに関連付けて、西宮硝子を自殺させる流れを作ったのだろうか。

④ 植野 直花

「植」の「直」と「直花」の「直」と「直」が2回も使われ、
とにかくまっすぐで正直な女の子として本編でもキャラが立っている。

「直花」の「花」は美しい存在としての「花」。はなやか。

⑤ 佐原 みよこ

難しい…

原⇒腹で、良い腹、つまり良いスタイルしていると繋げてみたが、
しっくりこない。

⑥ 川井 みき

川井⇒可愛⇒可愛い みき⇒きみ⇒君 よって可愛い君のアナグラムか。

容姿的にも可愛いことは自覚的であるが、
(無自覚的に)自分自身の存在をも可愛く思っている。

⑦ 西宮結絃

「結」として主に姉の西宮硝子と石田将也を結びつけ、
「絃」として音を鳴らす、つまり物語場で行動を起こし
キャラ同士の関係性を発展させる存在。

糸ヘンの漢字2文字が使われている点で、
強く慕う祖母の西宮いとへの関係を示したかったと思われる。

西宮いとは、西宮家の糸、
家族崩壊してもおかしくない西宮家の繋ぎの役割を担っていた。

⑧ 永束友宏

「友」「石田将也」との友情を象徴するキャラ。
「束」も束ねるという意味があり、これも友情に関連する言葉と見られる。
また原作では映画監督としてみんなの「束」になる役割もある。

「宏」は広くて大きいという意味から、
あの特徴的な大きい髪型や体型をさしていると思われる。

⑨真柴 智

こちらも難しい。

頭がいい人、何かを企んでいる「智」であろうが、
智⇒とも⇒友という見立てで、まわりくどいが
「真柴智」もまた「石田将也」の「友」と見ることもできるのかもしれない。

⑩ 石田 美也子

「也」で「石田将也」との繋がり。
文字通り、美しい人。

⑪ 西宮 八重子

八重は重い、いくつもの重なったという意味があるが、
物語上でも重い存在という役割を担ったのか。

まとめ

苦しい解釈が多いと思うが、
自分なりに考えてみた・調べてみたら面白かった。

そして本作はキャラ名に作者が強い意味を込めて(連想させて)
描いているのだろうとも感じることができた。

もしこのキャラの名前にはこういう意味があるというのがあったら
教えて頂きたいと思う。
 
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[ 2016/09/19 17:20 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

「聲の形」感想-監督:山田尚子語録にみるヴィヴィッドな感性 

はじめに

劇場アニメ「聲の形」を鑑賞。

koenokatati.jpg

京都アニメーション制作、山田尚子監督作品。
今までは京アニ制作の劇場アニメは、TVアニメ化されて劇場アニメとなっていたが、
本作は最初から劇場アニメとして制作されている。

全2269カット、芝居・背景・色彩の細部まで行き届いた仕上がりであり、
毎度のことながら京アニの制作力の高さに舌を巻くばかりだ。

特に本作は、聴覚障害を持つ西宮硝子の設定上、
手話でのやり取りが作品の特徴になっている。

手から指の細やかな動き、手の様々な形を見せる、
手の芝居とともにキャラの表情芝居にもリンクさせて見せるなど
アニメーションでは難度が高そうであろう手話を
ここまで徹底して作画したことにも頭が下がる。

花は手であり、キャラクターである

さて、そんな手話シーンについて
監督の山田尚子さんは

「手は花であり、一つのキャラクターである」
(出典:映画 聲の形 公式パンフレット)

と語っている。


私は驚いた。手を花にキャラクターに見立てる
山田尚子さんに感性の鋭さに。

確かに様々な形を持たせることができる手は花であり、キャラクターだ。
そして手を花、キャラクターとして見るなら
一見地味な手話のシーンも、後で思い返せば華やかにすら感じられる。

手は花でありキャラだったのだ。
私は山田さんのこの言葉は、極めて自身の作品を批評的に捉えているとも感じた。

さらにいえば山田さんは、監督処女作「けいおん!」から
キャラクターの脚を描いてきた方である。
今回の「聲の形」という原作を通し、脚と対をなす手を表現手段として
取り込んできたとも見ることができる。

山田さんのアニメでの表現の伝え方については以下のように語っている。

──硝子にはセリフがほとんど無いわけですが、キャラクターを描いていく上での難しさなどはなかったのですか?
山田 どうなんでしょう……。アニメって伝えるための手段の塊で。そのすべてが一つ一つのパーツとして分解できると思うんですよ。動き、色、カット割りとか。その中に声もあるのですが、私はそのどれもが同列のものだと思っているので。声という要素が無いからといって、伝えるという部分が揺らぐとは思っていませんでした。


出典:「聲の形」山田尚子監督に聞く。気をつかったり同情したり、何なら可哀想だと思ったりするのは大間違いだ
エキサイトレビュー

アニメはキャラクターの手・脚を通していくらでも伝えることができる。
私はアニメで手の芝居が効果的な手法だと知ったのは
「新世紀エヴァンゲリオン」だったが「聲の形」は
改めて手の芝居の大切さを感じさせてくれた。


山田尚子語録

他にもパンフレットやネットでの記事では
山田さんの作品へのディレクションに関して面白い言葉が掲載されている。

①作品の舞台を描く背景に関して

「キャラクターの演技は2.5次元。背景は2.7次元」
(出典:映画 聲の形 公式パンフレット)

本作を2次元と3次元の中間で捉え、
背景は3次元(写実)に近い感じで考えているのが興味深い。


②吉田玲子さんへのインタビューでの
本作をどのような構成にしたかという問いに

(監督から)「観た人が許されるような映画にしたい」
(出典:映画 聲の形 公式パンフレット)

子供時代のいじめによって、いびつになった人間関係は
修復し発展できるのかという難しい題材だからこそ、
最終的には許しで終えたいというのが本作の骨子なのだろう。


③もがく将也の演技について

「大きな小動物が怯えているイメージで」 
(出典:映画 聲の形 公式パンフレット)

「でっかいハムスターみたいな感じ」
(出典:映画「聲の形」公開!入野自由と山田尚子が「将也はでっかいハムスター」、コミックナタリーより)

大きくても小さい、そんな矛盾を抱えた存在として将也を捉えることで
キャラクターの厚みを持たせようとしていたのかもしれない。


④子供時代の将也の演技について

松岡が「監督から『(小学生時代の将也は)ハンバーグって感じでお願いします。』」(中略)
(出典:映画「聲の形」公開!入野自由と山田尚子が「将也はでっかいハムスター」、コミックナタリーより)

ハンバーグとは子供の純粋に好きなものの例えなのだろうか…


⑤音について

「きこえ」としての音だけでなく、物質としての音、人の生理に訴える音を大切にしたい」
(出典:映画 聲の形 公式サイト 牛尾憲輔インタビュー)

本編で繰り返し波紋のイメージもまた、音の大切さを訴えるものであろう。


おわりに

以上のような山田尚子監督の言葉を聞くと、
山田さんの感性の凄さ、作品作りへの言葉の使い方にただただ感心してしまう。

「たまこラブストーリー」では、才気溢れた若き監督の情熱的なフィルムだと感じたが
「聲の形」は「たまこラ」から圧倒的に成熟した監督の内に秘めた情熱的なフィルムだと感じ、
さらなる山田尚子監督の飛躍性を感じずにはいられなかった。
次の監督作品(TVシリーズ?劇場?)が楽しみだ。
 
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[ 2016/09/18 20:16 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

ジン・ジャハナムとGレコー歴史に名を残した英雄 

「機動戦士Vガンダム」50話「憎しみが呼ぶ対決」での
戦艦リーンホースJrが敵戦艦に特攻するシーン。
Vガンダムの中でも屈指の名シーン。

特に印象的なのは、影武者のジン・ジャハナム。
シリーズ中は自己の保身に汲々とした人物であったが
リガ・ミリティアのメンバーの死、真のジン・ジャハナムの出会いなど
辛く苦しい戦いを通し、指揮官として目覚めたのがこの特攻シーン。

そんな決意を決めたジン・ジャハナムの言葉が心に突き刺さる。

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ジン・ジャハナム
「当たり前だ! ここまで来て我々の働き場所が無いでは、ジン・ジャハナムの名前が泣くわ!」 
「若い者が生き延びれば、この名前は私のものとして語り継がれるってものさ。行っていいぞゴメス艦長!」



名前に翻弄された影武者であったとしても、
後世に名前を語られることを望んだジン・ジャハナム。

そんなジン・ジャハナムの名前は、
宇宙世紀の先にあるリギルドセンチュリーの時代
「ガンダム Gのレコンギスタ」に登場するMS「ジャハナム」の名前として
歴史に名を残し、後世に語り継がれたと思いたいのである。

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※ジャハナム

公式設定に基づかない解釈だが、
この解釈を取ると、ジン・ジャハナム閣下もうかばれるかなと思う。
 
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[ 2016/09/04 16:01 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(0)

デラーズ・フリートはテロリストか?義に殉じたのか? 

「機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY 」
に登場するデラーズ・フリートについて。

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ネットの普及が本格化する前の90年代、
あくまで私の身内の中でのデラーズ・フリートの評価は

「腐った地球連邦に一矢報いたジオンの残党」
「義に殉じるガトーや、信念を貫くデラーズがかっこいい」

みたいな事を言われていた。
もしかしたら別の見方をしている方もいるだろう。

しかし2001年のアメリカのテロ事件が起こったからなのか
ネットが普及した2000年以降の評価を見ると

「ただのテロリスト」
「自身のロマンに酔いすぎ」

という断じ方をされるのを見るようになった。
また身内でもかっこいいという見方から
「そこまで・・・」相対化された評価に移っていった


「テロリスト」か「信念に殉じた男たちか」
どちらであるともいえる。

考える立場の違いが、彼らの評価の仕方を変えていく。


連邦側の視点で見れば「テロリスト」であり
一年戦争のジオン側に共感した視点なら「信念の集団」と見ることもできる。


私は最初はガトーやデラーズをかっこいいと思っていたが、
今はそこまで入れ込めなくなってしまった。

とはいっても、ジオンの残党としては
ガンダムを強奪、連邦軍艦隊を核攻撃、
最後には真の目的であるコロニー落としを成功させるなど
組織は消えたが、目論見通り作戦は成功し続けた。
試合に負けて勝負に勝ったのがデラーズ・フリートである。


私が思うのはリリースされた90年代前半の価値観・空気として
デラーズ・フリートはかっこいい的な評価がしやすかったのだろうが、
時代の経過と経過中に起きた出来事、これらによる価値観の移り変わりで
彼らの評価も変わっていったのではないかと見ている。
 
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[ 2016/09/02 21:22 ] ニュース | TB(0) | CM(2)

「君の名は。」のユーモアとおっぱい 

新海誠さんはユーモアを織り交ぜた作品が得意なのだと最近気づき始めた。

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「君の名は」で一番良かったのは、ユーモア溢れる展開。
ユーモアをストーリーに自然に組み入れるのが上手かったと思う。
シリアスはユーモアがあってこそより生きる。


具体的には、漫画のようなふきだしを使う、
キャラに(世界観が壊れないほどに)コミカルな芝居をさせる等々、
序盤・中盤では要所にユーモアを仕込む展開で、クスッとさせてくれた。

そんな「君の名は」のユーモアで一番際立っていたのは、
瀧が三葉と入れ替わると、要所要所でおっぱいを揉むシーン。
本編では3回(4回?)は揉むシーンがあったと思う。

特に後半で、三葉と入れ替わった瀧がおっぱいを揉みながら泣くシーンは秀逸。
誰もがそれを見ていた四葉のように、気持ち悪いと思っただろう。
このシーンは劇場でも自然と笑いが起こるぐらい、面白かった。

この面白さは、シリアス度が増した後半(糸守と三葉の危機を救う展開)においても
なお、瀧は三葉のおっぱいを揉むというユーモアとの落差があるから生まれると思う。

何より、本編で繰り返しおっぱいを揉むシーンがあったからこそ、
最後のおっぱいを揉むシーンが生きてくる。

つまりおっぱいを何度も揉むのは、
繰り返しギャグやお笑い用語でいう天丼なのである。


ここで新海誠さん別の作品のアニ*クリ15の「猫の集会」を紹介したい。

「猫の集会」は猫のチョビが人間たちに尻尾を踏まれ
夜な夜なチョビたち飼い猫は集会を開いて人間への復讐計画を練る短編。

ちなみにチョビは1分の間にしっぽを5回も踏まれる。
しっぽの踏まれ方が面白く(音がエグい)、そこで笑いが生まれる。


こう見ると、新海誠さんはユーモアの中でも
繰り返しのユーモアが上手い方なのだとわかる。


まとめ

おっぱいを揉む事で生まれるユーモア。
「君の名は」のユーモアは三葉のおっぱいに詰まっていたのだ。
 
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[ 2016/08/29 21:11 ] ニュース | TB(1) | CM(0)

喪失と結びから観る「君の名は。」 

新海誠監督「君の名は」を鑑賞。

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作中で幾度と語られる「結び」というキーワード
そして新海作品に通じる「喪失」の物語であった。
今回はこの「結び」「喪失」から「君の名は」を考えてみたい。

「結び」のモチーフ性

まず空の上で二つに別れた
彗星の軌道(動線)こそ、
瀧と三葉の二人の「結び」の最たる象徴だった。
※上の画像が象徴的。

また瀧と三葉でやり取りされた携帯端末のやり取り
※LINE-線-糸

糸守という「糸」の名前。

三葉が瀧に飛騨から東京へ迎う間で生まれる動線、
瀧と三葉が互いを探しに、糸守のご神体ですれ違う動線
※動線を糸に見立てる

物語最後で、瀧と三葉が互いに乗る電車ですれ違うのも、
電車を糸として見立てれば、全て「結び」の一種だと思う。

幾度も幾度も、携帯端末、二人の動線、電車、といった「結び」を通して
瀧と三葉が、組糸のように繋がっていく物語であった。

瀧の腕に付けている紐。
瀧と三葉の身体が入れ替わること。
物語の謎が、一つに結ばれ昇華し、
最後は「名前」というコードを通して、二人は「出会う」資格を得る。


過去の新海作品と君の名はにある「結び」

また過去の新海作品と「君の名は」の間での「結び」という側面もあった。

「言の葉の庭」の雪野百香里が登場(CVは花澤香菜さん)。
もしくは瀧と奥寺に見られる、年上の女性に憧れる年下の少年の関係性。

「ほしのこえ」のウラシマ効果的な、時間軸の違いで生まれる悲劇。

「雲のむこう 約束の場所」で見られた“夢からの目覚め”と符合する
瀧と三葉の入れ替わり(二人共、最初は夢だと思っていた)

「秒速5センチメートル」のラストシーンを彷彿とさせる、瀧と三葉が出会う場所。

「星を追う子供」のビジュアルを彷彿とさせる、糸守のご神体とその周辺。

最後に、瀧の家にあった新海さんが描くネコをあしらったマグカップ。

自身の過去作品のモチーフ・要素・設定と新作を「結び」つける。
その行為は集大成的ともいえるのかもしれない。

私自身、新海さんは前作の問題点を検証し、
新作に反映されるスタイルだと思っている。

作中でも一葉おばあさんがいっていた
過去の宮水家の人間には入れ替わりの現象があり、
このことを聞いた三葉が彗星の落下を教えるためにあったこと。
(一葉⇒二葉⇒三葉・四葉、という名づけ方も、繋がり「結び」を感じる)

このシーンのやりとりは、
過去の作品があったからこそ、今の作品(君の名は)があるメタファーのようにも思える。

こうしたスタイルこそ過去と新作を「結び」つけるといえるのではないだろうか。

「喪失」と「結び」

新海作品で語られる「喪失」。
「喪失」とは、手に入れられたかもしれないものを失った意味での喪失。
そして喪失を取り戻すために動く物語。

どう喪失し、どう喪失を取り戻そうとし、結局喪失心はどう決着つけるのか。
作品ごとで「喪失」の描かれ方は違う。

瀧は三葉を失っていた(糸守の崩壊=喪失)事を知り、
三葉と糸守を救ったものの(喪失を取り戻す)、
互いの存在と名前を忘れる(再び喪失)。

しかし前述した今まで瀧と三葉の二人で起こった「結び」によって
最終的に二人は出会える機会を得られたのだと思う。

「喪失」しても「結び」によって喪失からは解放される。
喪失は結びで乗り越える。そんな風に感じられた。

瀧と三葉、互いに名前を言える時が来た。
ここからが本当の二人の物語の始まり。
「結ばれたこと」を描くのではなく「結ばれるまで」を描く物語。

まとめ

「結び」とは縁でもあると思う。
飛騨のラーメン屋で瀧の絵を見たおじさんが「糸守」だと言った偶然も縁であり
過去の作品との縁があって、「君の名は」がある。

過去と現在の縁、人との繋がりという縁、こうした中に自身(新海誠さん)がいて
作品を作っているのだという決意を見せられたかのような作品だった。

瀧と三葉のお互いの思う様子に涙し、
二人が名前を呼び会える機会を与えられたことに涙した。

2010年代を代表するアニメ映画になるのではという思いと、
今後の大作オリジナルアニメ映画は新海誠さんと細田守さんが
牽引していくのではという確信を抱く作品内容だった。
 
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[ 2016/08/28 20:20 ] ニュース | TB(0) | CM(1)