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滝川みうとバランス風呂釜 22/7 

22/7 の滝川みうといえばバランス釜(バランス風呂釜)だ。

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バランス釜は昭和時代の公営住宅で普及したお風呂で使用するガス給湯機器。壊れやすい等の理由で1990年代以降、屋外壁掛け式のガス給湯器の普及により見かけなくなった。バランス釜を使用する滝川みうの住まいは古めの住宅団地と推察できる。風呂釜は給湯器と比べると使い勝手が悪い。風呂釜は複数のスイッチをひねり、レバーを回すなど複数の操作を要する。また空焚き(水がない状態で追い焚き機能を使用してしまう)は絶対にしてはいけないなど操作を覚えるまで面倒。一方で給湯器はリモコンで簡単に安全に使用できるので便利だ。またバランス釜は冬季に本体の水抜きを行わないと、本体内で水が凍結して膨張した氷が銅管等を破裂故障させる。特に2023年1月の強烈寒波では給湯器とは違い本体に凍結防止機能がない風呂釜が凍結によっての故障が多かっただろう。バランス釜は(給湯器に比べ)使い方とメンテナンスに気を配る。

wikipediaでもバランス釜は長所に比べ短所の記述が多い。

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実際にバランス釜の使用者の感想もあった。不便だという。
<実際にバランス釜のお風呂を3年間使ってみた感想やメリット・デメリット(ヘブルシュの日記)>
https://www.heburushu.com/entry/baransukama

バランス釜は電気を使用しないメリットもあるが、全体的に不便で短所も多い。22/7を見る中で、使いづらく不便なバランス釜が滝川みうに重なってくる。今時のアイドルの仕様が、あるいは斎藤ニコルが使いやすい安全な給湯器なら、不器用で内気で繊細な滝川みうは不便で壊れやすいバランス釜。使いにくいバランス釜と同じように他のナナニジのメンバーも滝川みうの扱いに困る場面が以降では散見される。お風呂というサービスシーンの中で、一枚絵で滝川みうのキャラクターをバランス釜をなぞらえ、ひと目でわかるようにしている。私にとって22/7はバランス風呂釜である。
 
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[ 2023/04/29 20:41 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

分解の面白さ(炊飯器を分解しよう!) 

分解することで表面上では見えないものが見えてくるのが面白い。例えば炊飯器。分解すると、内部の構造や基盤の詳細、素材の組み合わせ方、色々発見できるのが楽しい。さらにゴミとして出しやすくなる。分解とはドライバーとペンチを持って新しい発見を目指して旅する行為ともいえる。からくりサーカスでフェイスレス指令が分解について語っていたが、今にしてその意味がわかる。分解はモノの理解に繋がるし、本質に到達する方法の一つなのだなと実感。実際に手にするから身体をもって理解できるのも良い。分解の面白さを伝えたく記事を書いたのだが、まずは手軽に分解できる炊飯器から取り掛かってみるのはいかがだろうか。
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[ 2023/02/18 20:38 ] ニュース | TB(0) | CM(1)

島耕作を面白く読めるようになった 

島耕作シリーズが面白く感じられるようになった。

これは島耕作シリーズ側に要因があるわけではなく、自分が面白く読めるような状態/感覚に近づいたのだろう。思うのは島耕作シリーズで語られる経済社会情勢については、今でいうyoutube動画の経済系のゆっくり解説のような解説動画に近い機能があるのではと思う。解説動画的な事を島耕作シリーズは結構前からやっていたんだなぁと今更ながら思った。また島が老境に差し掛かっているので、久しぶりに登場した人物が島と再開して死ぬ展開が多い。死に方もエグいものもあるが、弘兼氏の描写は妙に達観かつ淡々としているのでエグい死に方でも読める(横山光輝にも似ている?)。島の周りでは死が多いので島が死神のように思えてしまう。会社員の追体験ものとしてよくできているなぁと思った次第。
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[ 2023/02/11 16:22 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

逆襲のシャアのif 

永野護がメカデザインを降板されず続投できたら。
安彦良和がオファーを断らず作画監督をしていたら。
アムロに子供がいる設定のままでベルトーチカがいて、チェーンがいないなら(ベルチル)。

どんな作品にも製作中にスタッフの降板等や設定の変更はあるのだろうが、もし逆シャアが上記の形で製作されたらどうなったか。違う仕上がりになったと推測される。どっちの方が面白いのか?なんて考えてもみるが、結局世に出た逆シャアがより面白いのではないかと思ってしまう。クエスのあの感じを出すなら北爪が手がけたほうが上手くいくような気もするし。
創作は様々な可能性から唯一の選択肢を見つけ出す、細い一筋の道を辿っていく行為でもあるのだろう。ifの話でいえば、制作されなかったF91のTVシリーズも気になるところ。もしTV版F91が制作されたら、Vガンダムは?平成アナザーは?どうなっていたか。バンダイはサンライズを買収する時期で外部要因も加わり、ガンダムを取り巻く環境も変わっていたのかも。
いずれにしよ戦記物でありながら複数の世界線がある逆シャア(小説でいうハイストとベルチル)みたいな作品があるからガンダムって人気があるのかなと思った。
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[ 2022/11/26 21:02 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(0)

メドッサの館にみる青年富野喜幸の心情 

鉄腕アトム192話「メドッサの館」を視聴。

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今回の演出は富野喜幸。「富野由悠季全仕事」を読んでから見ると、ゲストヒロインのドリームの不思議でつかみどころのない感じも含めてチョキ(富野監督の著作で登場する女性。虫プロを辞めCM制作会社へ転職するキッカケとなった人。)にしか見えなかった。また外の世界に出たことがないドリームをアトムは「外に出よう」と誘う展開に、富野の「虫プロを出たい」にという心の声が聞こえた。ドリームには富野自身を仮託しているようにみえる。
アトムとドリームの惹かれ合いそうにながらも最終的にはドリームは海の中で暮らしていく(詳細は本編参照)ことになる。結局、外に出る出たいのが海の中でしか暮らせない結果で終わる。ドリームの兄(アトムと敵対し最後は妹と一緒に海に暮らす)の馬が雪の中で死んでいくカットで終わるなど、外に誘われても(虫プロを出て転職しても)順風満帆ではないという想像をアトムを使ってシュミレートしているようだ。結局富野は転職するが再びアニメ界に戻り今に至る。

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確かに「富野由悠季全仕事」で富野監督が語るようにメドッサの館には当時の青年富野の気分が見え隠れするようにみえる。Gレコは富野成分が強いといわれるが、Gレコは主義主張や観念の強さであり、アトムは青年富野の生々しい感情の発露の強さである。まだ演出スタイルが確立されているわけでもないので(兆しは端々で見えるが)ストレートな感情がフィルムにのっている印象すら受ける。

こうした富野の虫プロ出たいという気分を醸し出す挿話の次の話がアトムの最終回になるのも面白い。
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[ 2022/10/22 20:03 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

タイトルロゴから考える「水星の魔女」 

水星の魔女はタイトルからイメージを喚起できる点で良い名づけ方だと思う。

そんな「機動戦士ガンダム 水星の魔女」の岡本プロデューサーは
インタビューで次のように語る。

岡本 社会科見学で来た10代の子たちから話を聞くタイミングがあったんです。そうしたら「ガンダムは僕らに向けたものじゃない」「(タイトルに)ガンダムとついていたら見ません」と言われて……。


「ガンダムは僕らに向けたものじゃない」10代のリアルな言葉に衝撃を受けて──『機動戦士ガンダム 水星の魔女』岡本拓也プロデューサーインタビュー前編(アキバ総研)

10代にはガンダムという単語が忌避感を募らせている皮膚感覚を語っている。

水星の魔女の世界ではガンダムという名前は忌み嫌われ、
2話のサブタイトルではガンダムを「呪いのモビルスーツ」となっている。
劇中の大人たちはガンダムを忌避しまるで現実の10代の子たちとかぶるような反応をする。

シリーズものは新規層の開拓なしには存続し得ない。
今まではガンダムという言葉が注目される側面もあったと思える。
しかし昨今ではガンダムという言葉が新規層を阻む「呪い」となっている。

今までのTVシリーズのガンダムアニメのタイトル名は
1stから2011年のガンダムAGEまでは「ガンダム○○」みたいな方向が多かった。
(例外は∀ガンダム)

2014年の「ガンダム Gのレコンギスタ」
2015年の「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」以降から一転。
「ガンダム ○の○○」のような名づけ方も多くなり、
2022年の「機動戦士ガンダム 水星の魔女」もその流れにいる。

2014年ぐらいの作品からガンダムより
ガンダムのあとに続く「鉄血のオルフェンズ」「水星の魔女」という
タイトルに比重が置かれているように思える。

この事を各作品のタイトルロゴのデザインから考えてみようと思った。
そして同じ事を考えていた方による記事は既にある。↓

水星の魔女にのぞむこと① タイトルロゴのお話(はずレールガン)

内容的に頷ける意見も多々あり参考になった。
とりあえず本記事ではタイトルロゴのみに焦点をおいて語ってみたい。

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オルフェンズと水星の魔女を比較すると
機動戦士ガンダムの文字の大きさ・比率が違う
オルフェンズは機動戦士ガンダムが主張しているが
水星の魔女では機動戦士ガンダムが鉄血よりも小さく添えものであり
水星の魔女というタイトルで世に売り出したいイメージが強く伝わる。

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2022年の映画「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」では
機動戦士ガンダムの文字主張が強い。これは1stガンダムの話であり
安彦ファン、ORIGINファン、ベテランガンダムファンをターゲットにして
機動戦士ガンダムの名前で世に売り出したいのだろう。

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対して2021年の「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」。
機動戦士ガンダムの文字は小さい。水星の魔女より若干大きい。
ガンダムという主張はありつつも「閃光のハサウェイ」のタイトルで勝負したい印象だ。
約30年前の小説原作でありながら、ガンダムから距離を置くようなタイトルロゴだ。

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2014年の「ガンダム Gのレコンギスタ」もガンダムは添え物で
監督も脱ガンダムを標榜しているから「Gのレコンギスタ」に比重が強い。

以上の作品のタイトルロゴと比べて
水星の魔女の機動戦士ガンダムの文字は極めて小さい。
ガンダムを続ける上でガンダムという名前が「呪い」になっている。
であれば水星の魔女という名前で勝負するという
マーケティングの方向性が見えてくるように思える。

今後のガンダムアニメはタイトルロゴにおいて
「機動戦士ガンダム」をどうデザインするかで
作品の方向性が見えてくるのではないかと思う。
 
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[ 2022/10/10 18:50 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」の総括【劇場版を終えて】 

劇場版5部作を終えた「ガンダム Gのレコンギスタ」の総括を述べたい。

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「Gレコ」は富野由悠季の研究論文

 「Gのレコンギスタ(以下Gレコ)」は、富野由悠季のによる「宇宙エレベーターやフォトンバッテリー等を通して現代の社会経済と科学技術に対して異議申し立てをする研究論文」である。

 Gレコの企画が具体化する2000年代後半。富野監督は取材やインタビューを通し、「ハンナ・アーレントの『全体主義』の考えをアニメで表現したい」と語る。この試みに期待を高めていた。

 2015年の講演会では参考資料として池内了「科学・技術と現代社会」とE・H.カー「危機の二十年」を紹介。2016年の講演会ではガンダムエースの対談企画「教えてください。富野です。」での対談。特に宇宙エレベーター実験の参加と青木義男教授達との出会いが大きかったと語る。以上の経緯を踏まえると、Gレコは富野監督の出会い・取材・経験を通したインプットが凝縮に凝縮されてアウトプットされた作品だ。

 宇宙エレベーター、スコード教、フォトンバッテリー、クンタラ、アグテックのタブー、船体の装甲の材質、ムタチオン、ユニバーサルスタンダードと設定の数々。ただGレコは答えの是非は問わず問題提起に徹する。これは富野監督が2015年のGレコ放映終了後の講演会で次のように語る。

「(Gレコは)ユートピアニズムに陥った大人たちはリアリズムの欺瞞性を持ち込むから問題点を挙げておいた。」

と語ったように問題提起に留めるスタンスである。

 監督の意見を直接伝えるより、視聴者がどう受け止めるか。子供達がGレコを見てどう考えるのかを大切にしてほしいのだろう。
一方で富野監督は劇場版公開を通してのインタビューの中で作中の問題提起だけ伝わりづらかったのか「Gレコは宇宙開発反対がテーマ」をキーワードに宇宙エレベーターなどありえないと否定するメッセージも出している。

ドラマとテーマ・劇場版での昇華

 2016年の講演会では

「(Gレコの問題点は)リアリズムとテーマを優先させるためドラマを無視してしまったこと」

と語り問題提起を優先しドラマが疎かになったと語る。ドラマよりもテーマ寄りになった点でも、TV放送のGレコは研究論文的な傾向であった。

 私がGレコを面白く見られたのは、富野監督の考えを聞きたかったから。ドラマ以上に問題提起されたテーマを聞きたかったから。
Gレコは毎回、作中に散りばめられた問題提起が面白かった。「人は自分一人で本当に考えることができるのか」ハンナ・アーレントが提示する問題、組織と人の有り様など全体主義についての問題。科学技術の問題。様々な問題を提示させられ、考えさせられたのが面白かった。

 富野監督が考えを聞きたい立場なら、Gレコは面白かったのではないか。逆に富野監督のテーマに興味がなければ、楽しみづらいのではないか。富野監督がGレコを通して問題提起したい研究発表に対して、視聴者が興味を持てるかどうかがGレコの評価に繋がってくると感じた。

 このドラマが弱いと指摘されたTV版を踏まえて劇場版が製作。キャラクターの感情面をはっきり表現させるシーンを多数追加。個々の感情をキャラ同士のクローズアップさせる編集技でドラマ面の弱みの克服を試みている。

 戦争という異常空間の中で各々の愛と欲と業の叫びがこだまする。

現代の科学技術の有り様とGレコ

 Gレコは科学技術が抑制された世界。宇宙世紀の科学軍事技術の進歩はタブーとされ、宇宙エレベーターから供給されるフォトン・バッテリーとスコード教を信じて生きている。過去に起きた戦争の悲劇を通し、リギルド・センチュリーの時代を迎える。戦争と科学技術の抑制によって世界は徐々に再生されるが、戦争は起きる。

 Gレコは、富野監督が現実では叶わないと語る宇宙エレベーターと、理想エネルギーのフォトン・バッテリーがあっても戦争が起こる世界。ラ・グーを通して金星人の身体が突然変異するムタチオンが描かれたことで、人は宇宙では生きられない、地球圏から離れられない事も示唆している。

 Gレコは、現実では宇宙エレベーターは不可能で地球から離れて生きられない。人類が地球で戦争せずに持続可能性をもって生きるにはどうすれば良いのかを提起する作品だ。

 地球で戦争が起きないよう宗教や科学技術で歯止めをかけても、クンパ・ルシータによってヘルメスの薔薇の設計図が流出されれば、各国はMSを作り軍備を増強させてしまう。トワサンガやビーナス・グロゥブといった宇宙に住む人々が地球に帰りたい・見てみたいまっとうな思い(レコンギスタ)によって地球側の勢力と戦争を引き起こすことも描かれている。

 過去の反省から学び、様々なシステムを構築し宗教の教えがあっても、いずれは誰かの手によってシステムが壊れ戦争が起こる。科学技術への探求心。自分の故郷・ルーツに戻りたい気持ち。普通の人の素朴な思いが、実は業を呼び戦争を引き起こす事を描いている。

 Gレコの世界を踏まえ、戦争が起こらないようにするにはどうすればよいのか。科学技術は扱い方はアグテックのタブーのような仕組みが有効なのではないか。いずれにせよ一日一夜で解決できる問題ではない。

戦争を起こさないためには

 戦争を起こさないヒントは、メガファウナのクルーの構成と遍歴にある。メガファウナは、アメリアが海賊部隊であると偽装し、アイーダ指揮の元、キャピタルの諜報活動やフォトン・バッテリーの強奪を行う組織。その組織に様々な人間が集まる。

 アイーダが捕まったことでベルリと出会い、ベルリとノレドとラライヤがメガファウナのクルーになる。地球と宇宙を転々とする中で、キャピタル・ガードのケルベス。トワサンガのドレッド軍のリンゴ。トワサンガのレイハントン家の旧臣であるロルッカとミラジ。以上の面々がメガファウナに参加。一時期的にはアメリアのクリムとニック。キャピタルのマニィなどもメガファウナに参加していた。

 人種や国家間を越えて様々な人々が集まったメガファウナ。彼らは地球からトワサンガ、ビーナス・グロゥブを旅して地球に帰還したことで、真実を知り、実感を通して各国間の戦争を食い止める動きを取ることになる。

 元々、メガファウナに集まったクルーは好戦的ではない穏健的な人々。国家間を越え、同じ問題意識を持った個々人が集まることで、最終的にアイーダが戦争を食い止めることができた。つまりメガファウナに集まるような人々がいれば戦争を防ぐ力となる。

 物語から振り返るに、固定の考えを持った組織だけに属さずに、旅を通して異なる世界や組織の考えを触れることの大切さを訴えていた。特にアイーダは旅することで(特にグシオンからの)凝り固まった考えを開放し、公平で広く深い考えを身につけるようになっていった。旅を通して様々な考えを身に着けることが、戦争を起こさない道なのかもしれない。

TV版のコンテマンについて

 富野監督はTV版はスケジュールが無くなったために外にコンテを発注したニュアンスで語られていた。実際に6話を除きほぼ9話までは、監督がコンテを切っていた。もしTV版のGレコのスケジュールに余裕があれば、富野監督は一人でコンテを全話切っていたのでと推測できる。

 自らコンテを切るより、各話コンテマンのコンテチェックで作品をコントロールするのが富野監督の制作スタイルだ。もし全話コンテ切りを試みていたのなら、故出崎統監督のように全話コンテ切りで作品を完遂させたかったのかもしれない。

まとめ

 Gレコは富野監督の見聞きし出会いを通して得た経験を総動員した集大成。集大成であるがゆえに、テレビアニメの枠では収まらない程、密度の濃い情報量溢れる画面と思いに満ち溢れていた。劇場版ではさらに密度が凝縮されながらもドラマの焦点が強化。さらにドリカムの「G」を手に入れたことでさらに作品の有り様がクリア化されたようにも思える。凄惨な部分もあるが凄惨な展開にはせず、清々しく最後まで見られる口当たりの良さ。未来に向けて再び旅立つラスト。富野監督は永遠のチャレンジャーだと感じさせる。

Gレコは現代に山積する諸問題に対し、どう取り組めばよいのか。特に科学技術について講演会で富野監督は

「科学者が自分達の研究が進歩だと疑いがないと思っているようだが、そんなことはない。彼らはマッドサイエンティストだ」

というニュアンスで警鐘を鳴らしていた。どこまでが本当に必要な技術なのか。持続可能な地球環境であるためには、どんな技術を行使すれば良いのか。Gレコは考えるキッカケになるはずだ。

 ここまでテーマ的な事を中心に描いてきたが、まずアニメとして面白かった。極めて高レベルの手書き作画によるメカアクション。MS達の武器の面白さと戦い方のギミック。矢継ぎ早のような怒涛のカットの連続。生々しい感情と大仰さと細かさが同居する芝居の積み重ねによって生まれるキャラクター描写。面白い仕掛けに満ち溢れていた。

 劇場版ではまだ手描きメインのロボットアニメがみられる喜びに溢れている。戦争は辛いはずなのに、戦争はよくないと訴えているはずなのに画面から感じられるのはまずロボットアクションアニメとしてのエンタメ感だ。最後まで元気溢れる作風で通した「元気のGは始まりのG」の通りの作品。 
 
 そして劇場版のベルリとノレドがくっつく感じで終わるラストで救われた。

 以上、Gレコの総括。
 
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[ 2022/08/13 13:40 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(3)