FC2ブログ
カテゴリー  [富野由悠季 ]

石森達幸さんの訃報を受けて-ドバ・アジバと富野由悠季と二人の娘 

声優の石森達幸さんがお亡くなりになられた。享年81歳。

ミスター味っ子のブラボーおじさん。
喰霊-零-の諫山幽。
機動戦士Zガンダムのフランクリン・ビダン。
他にも様々な役が振り返られるだろう。

そんな私にとって一番思い入れ深い石森さんの役は、
伝説巨神イデオンのドバ・アジバ総司令だろう。

isimoritakkou000.jpg
isimoritakkou001.jpg

後継の男子が生まれず、その悔しみを抱え生きてきたドバ総司令。
長女のハルルは、男として生まれれば英傑になっていた事に対する悔しみ。
次女のカララは異星人の男に取られ、さらに子を産む事を知った事への悔しみ。
父親としてのエゴとこのエゴによってバッフグランの業をも背負ったドバ総司令。

そんなドバ総司令は石森さんの演技によって成り立ってきたキャラクターだ。

isimoritakkou-1000.jpg

そしてイデオン劇場版-発動篇におけるドバ総司令とハルルのやり取りが特に印象的だ。
妹カララを殺してきたハルルが、父ドバに女としての弱さを一瞬さらけ出した瞬間、
「私はお前を女として育てた覚えはない」と突き放される名シーン中の名シーン。

このドバ総司令とハルルのやりとりは、
富野監督が当時まだ子供だった娘さんが
大人になった時のやりとりを想定しながら描いたものだ。

端的にいえば、ドバ=富野監督で、ハルル=富野監督の長女と見立てられる。
それは富野監督はドバ総司令には娘二人の家族構成という共通点が見いだせるからだ。
だからドバ総司令は当時の富野監督自身の立場を強く反映させたキャラだろう。
富野監督は著書で以下のように語っている。

 キャラクターには「嘘八百のリアリティ」を付与することができるし、僕は結果として、父親として考えなくてはならないことについて思考の実験を行えた。
 僕の場合、そういうことを意図的にやってみせたのが『伝説巨神イデオン』だった。(中略)
 そして僕は『発動篇』の中でドバにこんなセリフを喋らせた。
「私の恨みと怒りと悲しみを、ロゴ・ダウの異星人にぶつけさせてもらう。ハルルが男だったという悔しみ、カララが異星人の男に寝取られた悔しみ、この父親の悔しみ、誰が分かってくれるか!」
 もちろん僕の娘はまだ当時まだ小さかったので、僕が本当に二人の娘に対して、そのように思っていたというわけではない。ただ「もし二人の娘がこんなふうに育ったら、どんな気持ちになるだろう」とシュミレーションすることで、ドバのドラマを構築してみたのだ。
 だからドバは、父親のリアリティを持つことができたと思うし、一方で僕はシミュレーションを経験したことで「ああ、やっぱりね。子供って親が思ってるようには育たないもんだよね」と、前もって覚悟することができた。
―『ガンダムの家族論』-ワニブックス【PLUS】(2011年)

ドバとハルルのやり取りは、
未来の自分と娘の対話のシュミレーションである事を語っている。

そして「ガンダムの家族論」によれば、

長女が十歳ぐらいになったころには「自分の子供が男の子でなくてよかった」と思うようになった。
―『ガンダムの家族論』-ワニブックス【PLUS】(2011年)

と書いている。富野監督は今では娘二人でよかったと思っているようだ。

そんな富野監督の娘さん二人、長女のアカリさんは演劇集団 円の文芸/演出、
次女の幸緒さんは振付家として道を歩んでいる。
人の考えは変わっていくものである。

さいごに

ドバ・アジバについて石森達幸さんは「演り甲斐があった」と語っているようだ。
本人にとっても思い入れがあるのだろう。

そんな父親の、しかも富野監督の業をも背負った、
ドバ総司令を演じきった石森達幸さんに改めて感謝をしたい。
石森達幸さん、ありがとうございました。
ブラボーおじさんも大好きでした。
   
このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2013/06/10 20:50 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(1)

富野由悠季監督と安彦良和さん、湖川友謙さんの関係性について 

はじめに

「機動戦士ガンダム」の中心アニメーターにして、
今は漫画家として活躍されている安彦良和さんの
「機動戦士ガンダム」の原画集が庵野秀明監督編集の元、
5/31に発売されているようだ。



日本の代表的なアニメ作品の一つである「機動戦士ガンダム」。
安彦さんが描くキャラクター、メカニックに惹かれて
「機動戦士ガンダム」を支持しているファンも多いと思われるし、
安彦さん抜きに「機動戦士ガンダム」は語れない。

さて今回は安彦さんと「機動戦士ガンダム」の総監督である
富野由悠季監督の関係について私見を述べてみたい。
さらに富野監督と湖川友謙さんの関係を比較することで、
富野監督と安彦さん、富野監督と湖川さんの
それぞれの関係性を見ながら考えてみたい。

梶原原作におけるちばてつやさんと川崎のぼるさんの関係と比較して考える

私が富野監督と安彦さん、そして湖川さんの関係を考える時に
梶原一騎原作におけるちばてつやさんと川崎のぼるさんの関係に近いと思った。

こう考えるキッカケになったのは
BSマンガ夜話の「あしたのジョー」の回に出演した
漫画家:いしかわじゅんさんによる以下の発言だ。

巨人の星とあしたのジョーってさホントに並べられて、途中から巨人の星ってギャグのネタになっちゃったじゃない。あれかわいそうだよね。両方とも傑作だったんだよ。川崎のぼるってさ、いかに梶原一騎の原作を増幅して見せるかってことに心をくだいた人でさ、ちばてつやは原作を引きつけてともに生かして演出しようと思った人なんだよね。その差だけなんだよね。


梶原一騎原作を増幅させる川崎のぼるさん。
梶原一騎原作を生かして演出するちばてつやさん。
というのがいしかわじゅんさんの評だ。

このちばてつやさんと川崎のぼるさんの差が、
安彦良和さんと湖川友謙さんの差に近いと思った。
それは安彦さんはちばてつやさん的であり、
湖川さんは川崎のぼるさん的であるということだ。

庵野さんと幾原さんによる、安彦さんと湖川さんの評価

そもそも今回の記事を書くキッカケになったのが
同人誌「逆シャア友の会」で庵野秀明監督と幾原邦彦監督が対談した内容だ。
安彦さんと湖川さんに対する評価に関して、二人は以下のように語っている。

庵野 安彦さんの富野さんの世界観をまるっきり否定してしまうような絵がですね、なんか最初の『ガンダム』の私にとって魅力だったんですけどね。

幾原 最初の頃はね、まだ安彦さんと富野さんの接点ってあったんですよね。富野さんもまだ、それほど観念的には自分が何を表現したいかって考えてなかったんだと思うよ。そういう意味ではドラマ主義ですよね。ドラマとして『ガンダム』を考えていたというのがあるんだけど、観念としてはそれほど『ガンダム』のことを考えてなかったわけ。多分、「観念描写だけでドラマを作っていいんだ」ということを再確認したのは『イデオン』だろうなと思うわけ。『イデオン』によって、「観念だけでも話しになるじゃないか」と自信を持ったんじゃないかと思うんだけど。

庵野 多分ね、僕も気付いたのは『イデオン』だったね。途中から走っちゃったからね。でも、『イデオン』の湖川さんの絵はピッタリしすぎてつまんない。

幾原 ああ、そう。僕は湖川さんの絵、好きですよ。でも、そういうことあるかもしれない。解り易すぎるんですよね。非常に表情にしても、バイオレンス描写にしても、非常にそのままなんです。解り易いんです。 例えば、子供の首が吹っ飛んだりする描写がいっぱいあったりするんだけど、ああいうものって、昔、永井豪が「バイオレンスジャック」でやったような確信犯的な描写ですよね。「ここまでやるんだぞ」っていう確信犯的な描写なんだけど、それがいかにも「確信犯としてやっています」っていうメッセージが解り易すぎる。

庵野 そう。なんかね、それに対する否定的な部分というのが画面から見えてこないんですよ。 安彦さんがやると「こんなのはやりたくない」というようなのが端々に出ていて、それがいい味だしてる
(逆シャア友の会より)


まず赤文字を安彦さんに対する評価、青文字を湖川さんに対する評価と分けてみた。

富野監督の世界観を否定もする安彦さん。
富野監督の世界観にピッタリ、わかりやすいのが湖川さん。
というのが、庵野監督と幾原監督の当時の見解のようだ。

余談だが、庵野監督の安彦さんに対する評価は高い。
まさかこの同人誌を作って20年後に原画集の編集を行うとは…
当時の庵野監督も思っていないだろう。

そんな二人の評価を上記のいしかわじゅんさん的な言い方に変えれば
富野原作(絵コンテ)を(作画で)増幅させるのが湖川さん。
富野原作(絵コンテ)を(作画で)生かして演出するのが安彦さん。 
と言い換えることもできるのではないかと思った。

以上のように考えると、
富野監督と安彦さんの関係は、梶原一騎さんとちばてつやさんの関係に近いし、
富野監督と湖川さんの関係は、梶原一騎さんと川崎のぼるさんの関係に近いといえる。
そう考えると、富野監督と安彦さんが組んだ「1stガンダム」は「あしたのジョー」的であり、
富野監督と湖川さんが組んだ「伝説巨人イデオン」は「巨人の星」的なのかもしれない。

おわりに

富野監督の世界観/観念を増幅させて表現したのが「イデオン」の湖川さんであり
一方で、富野監督の世界観を否定したり(アレンジともいえるかも)
しながら表現したのが「ガンダム」の安彦さんといえるだろう。

そしてBSマンガ夜話の「あしたのジョー」で、夏目房之助さんは
なぜホセ・メンドーサ戦で、ドヤ街の人が応援にこなかったのかに対して
「これが物語の必然」と語り、梶原さんとちばさんの作風がせめぎ合いの結果、
ちばさんが作り上げたドヤ街のキャラクターは退場し
梶原一騎的世界に収まるのが必然というような分析をしている。

一方で1stガンダムも富野監督と安彦さんがせめぎ合っていた作風が、
物語の後半で登場した「ニュータイプ」という言葉に象徴されるように
一気に富野監督的世界に傾斜していったようにも見られる。

その意味でも「あしたのジョー」も「機動戦士ガンダム」も
原作者と絵描きの個性と作風も違う二人のせめぎ合いの結果生まれた傑作であり、
最終的には原作者が作り出す世界/世界観に収斂していく意味では、
似ている作品であるのかもしれない。
 
何にしても「機動戦士ガンダム」は
あの時の富野監督と安彦さんが組んだからこそできた作品なのだと思う。
 
このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2013/05/30 21:11 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(0)

ヤマトの西崎義展氏と手塚治虫氏とガンダムの富野由悠季監督の関係~海のトリトンの頃 

はじめに

「宇宙戦艦ヤマト2199」が好評放送中だ。

個人的には新登場の女性キャラ達が良い味出しているなぁと感じながら
特にメガネっ娘の新見薫さんがお気に入りである。
結城信輝さんのキャラ絵は良い。

そしてヤマトに関連する話題といえば、
西崎義展の手記というサイトに
「宇宙戦艦ヤマト」の企画書が掲載され話題となっている。

http://web.archive.org/web/20070106185820/http://homepage3.nifty.com/newyamato/omoi.html
(西崎義展の手記:宇宙戦艦ヤマト企画書)

西崎義展氏はオリジナルの「宇宙戦艦ヤマト」の製作総指揮・プロデューサー。
ヤマトを世に送り出した功績者である。
そして企画書をみると、今我々が目にするヤマトの形とは違うとはいえ
並々ならぬ決意感がこの企画書から感じ取れるだろう。

こうした決意感を含め、
本編におけるわずかな希望を賭けてイスカンダルに行く沖田艦長/ヤマトクルー達と、
当時としては極めて珍しいオリジナルアニメという未知なるモノづくりに挑む
西崎氏達の姿はシンクロするといってもよいだろう。

「宇宙戦艦ヤマト」は今のアニメの流れの礎となった作品の一つなのである。

手塚治虫氏の版権を巡るひと悶着

そんな「宇宙戦艦ヤマト」を世に送り出した西崎氏ではあるが、
一方では手塚治虫氏と版権を巡ってひと悶着があったようである。
以下の引用を読んでほしい。

2階で作業をしていたところへ3階から手塚先生が降りてきて「もう私のものが作れなくなってしまいました」というのであった。涙ぐんでいて、話の内容がよくつかめず、「海のトリトン」がスタッフルームですべて、制作することになり、手塚プロで制作できなくなったというような内容だと受け取った。

手塚先生を慰めようと、当時個人で企画していた、エンゼルの丘や、キャプテKEN等があったので、「いいじゃないですか、こっちの企画を進めて、頑張りましょう」と言ったが、 そうじゃないんです、私の今まですべての版権を、西崎に取られてしまったのだ、と言うのであった。 そして悔し泣きに、血の涙を流していた。

島方社長に話を聞いた。手塚先生と西崎弘文との契約書がありそれに手塚先生の記名と捺印があって 今までの手塚治虫のキャラクターは、すべて西崎広文個人の物になってしまった。

だから今後手塚原作の作品を作っても、利益は、西崎個人に入ってしまうので、作れないというのであった。

裁判になったが、契約書があるので敗訴した。そして手塚治虫は一切そのことを語るのをやめた。
※西崎弘文=西崎義展

(http://blog.goo.ne.jp/mcsammy/e/74eae7ddff12129853ef34561a80c477
出典:真佐美 ジュン-海のトリトン)

端的にいうと、西崎氏は手塚治虫氏がもっていた版権を買い取ったようである。
その為に手塚氏の著作収入が西崎氏個人へにわたることになった。
そしてこの事に手塚先生は気つかず、気づいたときには時すでに遅し。
契約書も手塚先生がよく読まずに盲判状態で押してしまったようである。
その為に手塚氏は西崎氏に騙されたという想いが強かったのだろう。
※その後、版権は手塚氏が買い戻しているようだ。

この引用先で出てくる「海のトリトン」とは富野由悠季(当時:富野喜幸)の初監督作。
そして西崎氏は「海のトリトン」のプロデューサー。

富野監督は「海のトリトン」の制作経緯を聞かれて以下のように語っている。

聞き手「いよいよ『海のトリトン』になるわけですが、これは西崎さんが作った新会社でやりましょうと、お話が来たんですか。」

富野「違います、初めは手塚先生が手塚プロで作るつもりでいて、虫プロに下請けを出すという話もありましたがそれもなくなり、そして虫プロ商事と虫プロが分派したのか、自活していかなくてはいけないということで『海のトリトン』の企画を引き受けたんだけど、結局虫プロ商事も潰れて、スタッフルームだけが残った。で、最終的にプロデュース権というか© 権を西崎さんが買って、手塚先生から『トリトン』を引っペがした。」
※スタッフルームとは西崎義展氏が1972年、虫プロ商事に在籍したメンバーを中心に設立した会社。「海のトリトン」を制作。
出典:富野由悠季全仕事(キネマ旬報社)

富野監督の話だと、ただの権利関係の移転の話のようにも見えるが
「引っペがした」という言葉のニュアンスから
富野監督もおそらくある程度の事情は知っていたのだろうと推測される。

ちなみに手塚治虫氏はその後、西崎氏の名前を出すと烈火のごとく怒り出し、
「西崎の名前を僕の前で口にしないで下さい」という噂もあったようだ。

その意味では富野監督はかつての会社の社長であり、
子供時代に好きだった漫画家でもあった手塚氏から見れば
「海のトリトン」という望ましくない仕事を引き受けてしまったわけだ。

ともあれ「海のトリトン」が富野監督の初監督作品となり、
内容面では結末を巡る賛否両論はあったとしても一定の評価を得た。
「機動戦士ガンダム」に至る道筋は「海のトリトン」から始まったとみて良いだろう。

西崎義展氏と手塚治虫氏と富野由悠季監督

結局、手塚氏と西崎氏が和解することはなく、お互い亡くなられた。
細かい真相は藪の中であるが、西崎氏が手塚氏の版権を買取り、
手塚氏に苦汁に舐めさせたのは間違いない。

ただ、西崎氏が手塚氏から版権を「引っペがした」結果、「海のトリトン」が制作され、
手塚治虫氏の薫陶を受けた富野由悠季氏が監督したことを含め、
富野監督のその後のキャリアに大きな影響を与えてしまった意味でも
西崎氏の存在がアニメ界に良くも悪くも影響を及ぼしてしまったといえる。

その後富野監督は、西崎氏から「宇宙戦艦ヤマト」の4話の絵コンテの依頼を受けたが、
シナリオが気に食わず、富野監督はコンテでシナリオを改竄した。
これが西崎氏の怒りを買い、富野監督は元のシナリオ通りに修正したが
その後二人が一緒に仕事をすることはなかった。

そして富野監督も西崎氏と「縁が切れて良かった」と富野由悠季全仕事で語っている。
これは富野監督なりの手塚治虫氏への義理の通し方だったのかもしれない。

まとめ

最後に。前後するが「海のトリトン」を制作後、
上記の企画書にあるように起死回生の想いで作ったであろう
「宇宙戦艦ヤマト」製作の中心人物となった西崎義展氏。

そのヤマト打倒を掲げて作られたのが「機動戦士ガンダム」であり、
この目標を掲げたのが原作・総監督である富野由悠季監督だ。

その意味では「海のトリトン」は「ヤマト」を契機に
「ガンダム」で最高潮を迎えたアニメブームの流れを決定づけた作品だったのかもしれない。

「ヤマト」「ガンダム」を世に送り出した中心人物、
西崎氏と富野監督には「海のトリトン」を挟みつつ、
手塚治虫氏との因縁と西崎氏の功罪の大きさも含め、
アニメに表現に生きた方々の人間関係の奥深さを感じさせてくれる。

こうした事を踏まえて「ヤマト2199」を見ると、また面白いのかもしれない。
  
このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2013/05/20 21:10 ] 富野由悠季 | TB(1) | CM(2)

機動戦士ガンダムシリーズのキャラクターデザイナーの制作会社出身別一覧 

アニメのガンダムシリーズのキャラクターデザイナーを制作会社出身別で分けてみた。
基本的にはアニメのみ扱う感じ。まずTVシリーズ。

作品名キャラクターデザイナー出身
機動戦士ガンダム安彦良和虫プロダクション
機動戦士Zガンダム安彦良和      ゛
機動戦士ガンダムZZ北爪宏幸スタジオ・ビーボォー
機動戦士Vガンダム逢坂浩司アニメアール
機動戦士Gガンダム逢坂浩司      ゛
新機動戦記ガンダムW村瀬修功中村プロダクション
機動新世紀ガンダムX西村誠芳スタジオダブ
∀ガンダム菱沼義仁 
機動戦士ガンダムSEED平井久司中村プロダクション
機動戦士ガンダムSEED DESTINY平井久司      ゛
機動戦士ガンダム00千葉道徳中村プロダクション
機動戦士ガンダムAGE千葉道徳      ゛

※∀ガンダムの安田朗、ガンダム00の高河ゆん、ガンダムAGEの長野拓造は
原案に相当するので、とりあえず除外。

ここ最近のTVシリーズは村瀬さん、平井さん、千葉さんの
中村プロダクション出身者の方が目立つ。

次にOVA。

作品名キャラクターデザイナー出身
機動戦士ガンダム0080美樹本晴彦アートランド
機動戦士ガンダム0083川元利浩グループどんぐり
機動戦士ガンダム第08MS小隊川元利浩     ゛
新機動戦記ガンダムW Endress Waltz村瀬修功中村プロダクション
機動戦士ガンダムSEED C.E.73 STARGAZER大貫健一
機動戦士ガンダムUC高橋久美子九月社
模型戦士ガンプラビルダーズ ビギニングG寺田嘉一郎虫プロダクション

特に傾向は無し。次に劇場版。
  
作品名キャラクターデザイナー出身
機動戦士ガンダムⅠ~Ⅲ安彦良和虫プロダクション
機動戦士ガンダム逆襲のシャア北爪宏幸スタジオ・ビーヴォー
機動戦士ガンダムF91安彦良和虫プロダクション
劇場版∀ガンダム菱沼義仁
機動戦士ガンダム00劇場版千葉道徳中村プロダクション

大貫さんと菱沼さんの出身がわかる方、教えてください。
 
このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2013/05/10 21:50 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(2)

逆襲のシャアにおける、αアジールの機体名の意味から考えるクエス・パラヤ論 

はじめに

「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」における
クエス・パラヤというキャラを考える時に
αアジールという機体を抜きには考えられない。

arufazi.jpg

ではクエスとαアジールの関係性とは何か。
αアジールという機体名に込められた意味から考えてきたいと思う。

アジールの意味~クエスにとっての聖域/避難所

まず、wikiでアジールを検索すると以下のような説明だ。

アジールあるいはアサイラム(独: Asyl、仏: asile、英: asylum)は、歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリアのことを意味する。ギリシア語の「ἄσυλον(asulon:侵すことのできない、神聖な場所の意)」を語源とする。具体的には、おおむね「統治権力が及ばない地域」ということになる。

 
端的にいえばアジールとは、聖域/自由領域/避難所であり、
これが具体的にどこを指すのかといえば、西洋では神殿であり、
日本ではかつてあった縁切り寺などが該当する。

そしてαの意味をgoo辞書で調べると

アルファ【Α/α/alpha】

1 〈Α・α〉ギリシャ語アルファベットの第1字。
2 物事の最初。「―からオメガまで」
3 〈α〉ある未知数。また、ある数量に付け加えられるわずかな量。「プラス―」
4 〈Α〉
㋐野球で、後攻チームが最終回の攻撃をしないで、または終えないで勝ちが決まったとき、その得点につける記号。現在ではXを用いる。スコアブックに記されたxをαと読み違えたところからという。
㋑走り高跳び・棒高跳びで、次の高さに挑戦しないで試技を終えたとき、それまでの記録につける符号。「二メートル―」
5 〈α〉金属・合金などで相を示す記号の一。
6 〈α〉有機化合物の炭素原子の位置を示す記号の一。 【goo辞書より】

  

となっている。

これらαとアジールのそれぞれの意味を、
クエスにおけるαアジールの関係に上手く当てはめるとするなら

αアジールは、クエスにとっての始めての聖域/避難所といえる場所であるといえるだろう。

クエスはなぜαアジールに乗らなければならなかったのか

そもそもクエスというキャラは逃げ続けてきたキャラだと思う。

まず家庭を顧みない地球連邦の腐った官僚の象徴ともいえる
父:アデナウアー・パラヤが嫌で逃げた。
次に偶然出会ったアムロに惹かれるも、チェーンがいた為にシャアと共に逃げた。
そして(無自覚にも)クエスを鬱陶しいと感じたシャアが
クエスにプレゼントしたのが、αアジールという
クエスにとって最初の聖域であり避難所だったわけである。

言い換えればシャアがクエスにαアジールという逃げ場所を与えたようなものであり、
逆にクエスはシャアにのせられて、αアジールに逃げてきてしまったともいえる。

そう考えると、家庭からも様々な環境からも逃げ続けてきたクエスが
αアジールという避難所の名を冠した、機体を最後に乗ったのは必然であったようにも感じる。


しかし逃げ続けてきたクエスは、だからこそαアジールで死ぬしかなかったともいえるし、
逃げ続けてきてしまったため、ハサウェイを含めて誰の耳も貸さなくなってしまった。
その意味では、ハサウェイがクエスを助けたかったのであれば、
αアジールに乗る前までがチャンスだったのかもしれない。
αアジールに乗ってからでは遅かったのだと言えるのかもしれない。

終わりに

富野監督が、αアジールという機体名を付けたのかわからないが、
クエスというキャラの有り様をαアジールという名前は見事に現している事を考えると、
おそらくαアジールという名前は、作り手が確信を込めて使っているのだろう。

そんなキャラとキャラの背景、そして機体名が見事に合致したクエスとαアジール。
逆襲のシャアにおけるクエスは、逃げ続けてきたことによって
最初の聖域/避難所を手に入れたものの、救われることはなかった意味で
富野監督の当時のニュータイプへの認識を象徴するキャラクターなのである。
 
このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2013/04/08 21:37 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(0)

逆襲のシャアのアムロの「あんたちょっとセコイ」決定的瞬間。そしてシャア。 

はじめに

逆襲のシャアでアムロがクエスに
「アムロ。あんた、ちょっとセコイよ」と言われるシーンがある。
逆シャアの名シーンであり、名セリフの一つだろう。
セコイと言われる主人公はそうもいない。

amurosekoi004.jpg
amurosekoi1000.jpg

これは、クエスがシャアとアムロの二人の因縁を知っていて
二人の対決が不意打ちじみた展開で、かつMS戦ではなく、銃で決着をつけようとし
堂々としていないアムロに対して、セコイと感じたのだろう。
その後、クエスはアムロの銃を奪い、セコイ発言をしてシャアの元に走る。

そして逆襲のシャアにはアムロがセコイシーンが他にもある。
そんなアムロのセコイ決定的瞬間を紹介する。
またそんなアムロに対して、シャアはどうなのかも見てみたい。

アムロがセコイ決定的瞬間

シャアが乗るサザビーとの対決で、ビームライフルを失ったアムロ。

amurosekoi1-1000.jpg

その後アムロは、出くわしたギラドーガをビームサーベルで斬りつけ、
隙を見て、ギラドーガからビームライフルをちゃっかり奪っている。

amurosekoi008.jpg
amurosekoi009.jpg

「アムロ。あんたちょっとセコイよ。」

ビームライフルを持っていなければ、敵から奪うメソッド。
アムロのセコさを映し出した決定的瞬間である。

このギラドーガから銃を奪うことについては、
江戸の敵を長崎で討つに近い行為なのかもしれない。
つまり、クエスに取られた銃の仕返しとして、ギラドーガから奪い返しているのかもしれない。

そしてこの後、アムロはアクシズ内部の爆破工作に向かい、νガンダムを降りるのだが
再搭乗する際に、νガンダムの右手に持っているビームライフルは

amurosekoi000.jpg

ちゃんとギラドーガが持っていたビームライフルが握られている。

しかし、アムロはそのビームライフルをサザビーにお見舞いしたのだが、

amurosekoi001.jpg
amurosekoi002.jpg
amurosekoi003.jpg

全く効かず。これがMSの機体の差か。
世の中、ギラドーガのビームライフルでサザビーを倒せるほど甘くはなかった。
「わかるか、北久保」(北久保さんとは関係ありません) 。

ちなみにνガンダムが敵機のギラドーガのライフルを問題なく使えた理由としては
敵味方の違いはあれど、両機体ともに同じアナハイム社製だからだろう。
規格的にマッチしていたと思われる。

セコイ、アムロ。対してシャアは?

アムロがセコイなら終生のライバルのシャアはというと・・・

amurosekoi005.jpg

ジェガン3機に対して、メガ粒子砲を気前よく発射し撃破。

amurosekoi007.jpg

駄々っ子ビームサーベル二刀流で、サザビーのエネルギー切れの流れを作ってしまい、

amurosekoi006.jpg

アムロのバルカン攻撃を防ぐために、また気前よくメガ粒子砲を放ち、

amurosekoi1-1001.jpg

「パワーダウンだと」とカッコイイ池田秀一声で、
エネルギーの無駄遣い・大盤振る舞いな自身の戦い方の不味さを隠すシャア。

∀ガンダムのメリーベルに
「かっこつけるだけで戦い方の下手なシャア=アズナブル。
私が盛り上げてあげるよ」と言われても仕方がない姿である。

まとめ

ギラドーガのビームライフルを奪うセコイアムロ。
対して、メガ粒子砲やビームサーベルなど、ビーム系の武器の大盤振る舞いをして
アムロよりも早くパワーダウンを招いてしまうシャア。

これは、シャア相手でも冷静だったアムロと
アムロと戦いたくて仕方がなかったシャアの違いだったのだろう。
端的にいえば、シャアは後先を殆ど考えていない戦い方だ。
 
シャアはアムロに「 愚民共にその才能を利用されている者がいうことか」と批判するが
シャアの戦い方はエネルギーの無駄遣いである。

この差は、大人になったアムロと、大人になりきれなかったシャアという言い方もできる。
こうした戦い方でキャラクターの性格を説明台詞だけではなく、
行動でサラリと見せてくれるのが、逆襲のシャアという作品の魅力の一つなのである。
 
【関連記事】逆襲のシャアにおける、ミライの重要性についての考察。
 
このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2013/03/18 20:00 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(11)

逆襲のシャアにおける、ミライの重要性についての考察。 

機動戦士ガンダム逆襲のシャアにおける、ミライさんについての考察をしたい。

まずミライ・ノア(旧:ミライ・ヤシマ)は、逆襲のシャアの中において、
主役のアムロ、シャアは別として、脇役のクエスやナナイと比べても
登場数やセリフ数がキャラに比べて少ない。
しかしミライは作品内において、極めて重要な役割を握ったキャラクターといえる。
その理由を解き明かしていきたい。

・母親を求めたシャアと母親になったミライ

シャアは最後の最後でアムロに

「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ。
 そのララァを殺したお前に言えたことか」

という告白をする。今まで道化を演じ本音を隠してきた
シャアの本当の意味での最初で最後の本音だといえるだろう。

ではこのシャアが言った「母親」について考えるとき、
誰が宇宙世紀ガンダムで母親なのか/なったのかと考えた場合
母親に該当する女性がミライだけだからである。

確かにミライ以外にも、逆シャアまでのガンダムシリーズにおいて
登場した母親には、アムロやカミーユの母親がいる。
確かに彼女たちは母親ではあったが、
主人公達にとって決して良き母親という側面で描かれるわけではなく、
主人公達への境遇に対する無理解や別離の象徴として描かれ、
ネガティブなイメージの母親像であった。

(※ただ1stガンダムにおけるアムロの母の話は
ザンボット3から続く、乳離れの継承もあるのは留意しておきたい。)
  
さらにハヤトと結婚し、カツ達を養子として引き取ったフラウ・ボゥがいるが、
子供を身ごもった段階までしか描かれていないので、
本当の意味で母親になる直前までの姿しか描かれていない。

その中で逆シャアの段階までは、きちんとハサウェイ達を育て
夫のブライトとも良き関係を築いたであろうミライ。
シャアが求めていた母親像とは違うかもしれないが
1stから逆シャアまでの宇宙世紀ガンダムで
結婚・出産を経て母親になったことを体現していたのはミライなのである。

ミライとララァの比較において

ミライの重要性は、ララァと比較するとより明確になる。
例えば、以下のセリフ。

母親になったミライは、いつまでも子供なシャアの事を

「シャアならやるわ。母さんも昔、戦った事があるからわかるの。
地球の人は荒れるだけでしょ、シャアは純粋すぎる人よ」

と評している。

一方でシャアにとって母親になってくれるかもしれないララァも

「彼は純粋よ」

とアムロの夢の中で言っている。

母親になったミライと母親になってくれるかもしれないララァ。
その二人から同じ「純粋」という言葉を使うが、
もしかすると意図するニュアンスは違うのかもしれない。
ミライが母親目線からシャアを純粋と評したのはおおよそわかるが
ララァが自分をどこの目線/ポジションにおいてシャアを純粋と評したのだろうか。

ここでララァとの対比の意味でミライの存在がより明確化されてくる。

地球のミライと宇宙のララァ

ミライとララァの関係についてより掘り下げる上で、
キャラクターの居場所という枠組みで考える。

それはシャア、アムロ、ブライト、クエス、ハサウェイ、ナナイ、ギュネイ、チェーンなど
主要キャラの殆どが宇宙に全ているのに対して、ミライだけが地球にいる点。
これは戦いの舞台は宇宙なので、主要キャラが宇宙にいるのは当然なのだが、
この事の意味をララァという観点から考えていきたい。

この事については、機動戦士Zガンダム15話「カツの出撃」で
アムロとシャア(クワトロ大尉)のやり取りを抜粋する。

クワトロ「君も宇宙に来ればいい」
アムロ「行きたくはない、あの無重力帯の感覚は怖い」
クワトロ「ララァに会うのが怖いんだろう」
クワトロ「死んだ者に会えるわけがないと思いながら、どこかで信じている。だから怖くなる」.
アムロ「いや」
クワトロ「生きてる間に、生きている人間のすることがある。それを行うことが死んだものへのたむけだろう」.
アムロ「喋るな!!」

ここでシャアとアムロにとっての宇宙がどういう意味なのかがわかる。
つまり二人のとって宇宙とはララァと交わってしまう場所であり、
端的にいえば宇宙がララァなのだ。

だからこそララァの呪いにかかったシャアとアムロの決着は
宇宙で行う必然性が生まれ、それはララァという呪いに踊らされ続けたともいえるのだ。
そして、シャアに引っ張られたクエス、ナナイ。
アムロに引っ張られたチェーン。クエスに引っ張られたハサウェイ・ギュネイ。
つまりララァの呪いを直接・関節的に受けてしまったものが、
宇宙にいるという見方もできるのだ。

その中でララァの呪いとは無縁であり、唯一地球にいるミライが、
宇宙・地球という作品内におけるバランサーとしての役割を果たすのだ。
宇宙にはララァの呪いがあるが。ミライは地球で生きているのだ。

ミライの元婚約者カムラン・ブルームの存在

ミライの存在感を一際際立たせる上で、
1stガンダムではミライの元婚約者であった、カムランが再登場をするのはとても意味深い。

カムランは、ネオジオンとシャアの行動をブライトにリークをして
ロンドベルに核弾頭を横流しするという物語展開において重要な役割を果たしている。
そんなカムランの動機は

「私はミライさんに生きていて欲しいから、こんな事をしているんですよ」

に集約されている。つまりミライに集約されているのだ。

劇構成的に1stからZZまでの登場人物で連邦側内部にいる人物が限られている面が考慮され
カムランに再登場の白羽の矢が立ったと思うが、カムランが登場することで
元婚約者のミライ(さらに恋敵のブライト)の存在感が際立ってくるのだ。

それは上記でも指摘したように、
宇宙世紀の物語の主役はシャアとアムロであるが、彼ら以外の人間の物語もある。
その彼ら以外を代表するのがミライとブライトであり、
カムランがこれを支える構造が浮かんでくるのだ。

逆襲のシャアにとって、ミライ(もしくはブライト)の存在が重要であるからこそ
カムランが再登場してきたと私はみている。

ラストカットからの考察

逆シャアのアクシズから地球から離れた以降のシーンの、
ラストカットの繋ぎ方から考えてみたい。
特にED曲に入る前の最後の3カットをここに掲載する。

gyakusya1002.jpg
gyakusya1000.jpg
gyakusya1001.jpg

宇宙に漂流するハサウェイ(たぶん彼の視線の先にはサイコフレームの光がある)

車から降りているミライ親子

サイコフレームの光を見るミライ親子

以上のように、シャアとアムロの決着がついた物語の最後は
宇宙(ハサウェイ)から地球(ミライ)に戻ってきていることがわかる。


さらにいえば、上記の点に関して、最初に挙げたシャアの「母親」発言の直後に繋がるため、
シャアの母親発言→アクシズ地球はなれる等々→地球のミライ、という流れにもなる。
母というテーマをシャアとミライで繋げているのが映像的にもわかると思うし、
このラスト一連の流れで子供の鳴き声が挿入されるのも、
母というキーワードを使えば各々容易に解釈できるだろう。

追記

※ 最後の3つ目のカットはクリスチーナという指摘がありましたので取り下げます。

まとめ

以上、逆襲のシャアにおけるミライの重要性について考察してきた。
ミライは決して、物語の中心にいるわけではないが、
登場するだけで、各キャラの意味合いや立ち位置を決定してしまう存在だった。

そしてミライは結局のところ安彦さんのキャラクターなのだと思う。
安彦さんが描いたキャラだからこそ、ミライを母親になることができたのだ。
そしてクエスやナナイ、チェーンやレズンが
イデオンやダンバインなどでキツイ女性を描く事を得意と見せた
湖川友謙さんのラインを継承した北爪宏幸さんのキャラクターなのだ。

その意味で北爪女性キャラに満ちあふれた逆シャアの世界に
安彦キャラのミライという対比が明確化される。
その意味では、逆襲のシャアの女性たちの裏では、
安彦良和キャラVS湖川友謙-北爪宏幸キャラの戦いが起こっていたのかもしれない。

そして結局のところ、なぜミライが重要かといえば
宇宙世紀ガンダムの一つの総決算に当たる逆シャアにおいて
1stガンダムでブライトとアムロと一緒にシャアと戦い、
女であり母親になったミライの視点から
シャアとアムロの最後の戦いを地球から見届ける上で必要だったのだろう。


そしてハサウェイ、そしてミライが見た先にあったサイコフレームの光こそ

「わかってるよ。だから、世界に人の心の光を見せなけりゃならないんだろ」

上記のアムロが言った人の心の光であり、
それは人に絶望していたシャアと
人に希望をもっていたアムロの二人によってもたらされるのだ。

言い換えればつまり逆襲のシャアという物語は、
シャアとアムロ側とミライ(ブライト)側が
人の光を通して交わることで、幕を閉じる事を意味しているのだ。
 
このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2013/03/10 01:21 ] 富野由悠季 | TB(1) | CM(7)

富野喜幸演出、新造人間キャシャーン 第4話「MF銃に怒りをこめろ」を見る 

ニコニコで配信が開始された新造人間キャシャーン。
4話は富野喜幸(現:富野由悠季)演出回なので、さっそく見てみた。


うむ。面白い。

最初のキャシャーンとルナの噛み合わない会話劇も
二人の考えている方向性が、はなから違うから
噛み合わない事を強調する見せ方も富野さんらしい。
噛み合わないときはどんなに互いを思っても噛み合わない。
この描写は最後に二人の気持ちが繋がるための伏線であるのもポイント。

アクション面では敵に奪われたMF銃に打たれて死んだと見せかけて
敵ロボットの脚にしがみついてあたりの描写は
柔道部出身の富野さんだけあって、粘りある説得力の高い描写に仕上がっていた。

またキャシャーンの目がくらんだり、ルナを人質を取られるといった不利なときは
キャシャーンが下手側に回るが、状況が変わり有利になると上手にまわるなど
富野さんの映像の原則で見られる「上下」のこだわりもきちんと感じさせる。


後は動勢の扱い方が面白い。
キャシャーンやルナが逃げる時、
もしくはルナの父親がアンドロ軍団に襲われるといった
不利な状況を演出するときは、左から右へ画面が進む、キャラが動く。

一方でルナが敵の城へ潜入する。
キャシャーンが敵の城を攻め落とすといった有利で攻性な状況を描写するときは
右から左へ画面が進み、キャラが動く描写を取る。

最後はルナがキャシャーンの元から去り画面左側から右側へルナを乗せた船が進むが
ルナの進路方向に先回りしたキャシャーンが待っているという描写も
今回で示された、右から左、左から右の画面動勢の法則を逆転させて
最後のカタルシスを発生させることに繋げる演出は見事だった。

画面の動かし方一つをとっても法則性・ルールを用いて
画面をコントロールして物語を盛り上げる富野演出。
旧アニメスタイル2号でりんたろう監督が「富野ちゃんはロジックだよねぇ」
といわれる所以もわかる回だった。

最後にタツノコの圧倒的なキャラデザイン力に富野演出は中々に贅沢。
デザインがしっかりしているからこそ、演出もキャラの深さを抉りだして放り込められる。
特にルナの描写で感じた。
 
このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2012/08/22 20:03 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(0)

富野喜幸総監督が語るガンダム「映画」案の全貌【富野由悠季】 

今回は富野監督の昔のインタビューを紹介!!

アニメージュ1980年3月号に
「富野喜幸総監督が語るガンダム「映画」案の全貌」という記事が掲載されている。
これは「機動戦士ガンダム劇場版」の製作前に
映画の構成案を富野監督へインタビューするという内容。

当時の富野監督がどう考えていたのか
製作直前の生の声をお聞き下さい!!
 
インタビューは【続きを読む】をクリックし、ご覧下さい。 
 
このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2010/08/22 23:58 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(0)

「星山博之のアニメシナリオ教室」を読む 

星山博之のアニメシナリオ教室星山博之のアニメシナリオ教室
(2007/06)
星山 博之

商品詳細を見る


土日で上記の本を読んだ。著者は星山博之氏。
80年代のサンライズ黄金期を脚本面で支えた方。

本の内容は氏のキャリアを振り返りながら、
アニメのシナリオとは具体的にどう書くのかを手解きしたものになっている。
企画書の書き方、柱、プロットの組み方、そしてシナリオ創作についての心構え。
上記の事が、わかりやすくかつ実践的に書かれている。
また氏が脚本担当した「機動戦士ガンダム」の13話「再会、母よ…」の決定稿が
掲載されているのも見所。こちらは本編映像を見比べながら読むのも面白いと思う。

本の中で印象に残った文を二つ紹介。
「アニメの感動の本質は時間の経過の積み重ね」
「映像の本質は物理的な時間の流れよりもはるかに短い時間で時の流れを人に感じさせる事」

押井守も映像は時間を演出する事だと言ってたが、
映像の本質は不可逆性な時間経過をどう見せるかにかかっている事を再認識した。


ちなみに星山博之氏が手掛けられた脚本は、
「太陽の牙ダグラム」「銀河漂流バイファム」「うる星☆やつら」
「蒼き流星レイズナー」「新世紀GPXサイバーフォーミュラ」

上記の作品群を並べるだけで(他にも多数あるが)その功績がうかがい知れる所。

氏の脚本の魅力は、物語の全容が明瞭に語られること。
キャラクターへ素直に感情移入が出来る。見る側の期待に沿った熱い展開。
それらは氏が常に普遍的な人間ドラマを志向してきたからだろう。
氏の作品・脚本は常に優しさと暖かさを持ち合わせているのは作品を見ればわかる。

本書の中で富野監督はシャアやセイラが好きであり
対照的に星山氏はカイに興味があったと記述がある。
こういう「1stガンダム」では富野監督と星山氏のモノの見方の違いが
文芸面での相乗効果を発揮させたのではと思う。
これが作品のバランスの良さに繋がっていると思うし、
ガンダムの中でも「istガンダム」がアニメファン以外の多くの方にも
共感を得られているのも氏の脚本だからという指摘がよくされているが、的を得ていると思う。


個人的に好きな脚本家は榎戸洋司氏だったりするが、
理想的な脚本を書かれる方は星山博之氏というイメージを持っている。
 
このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2010/06/22 01:26 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(2)

【感想】ヱヴァゲリオン新劇場版「破」を劇場版Zガンダム(富野監督)と比較する 

「破」の感想2回目。
ちょっと切り口を変えた感想。

それは、今回の「ヱヴァ」と似たようなコンセプトだったと思われる
Zガンダム劇場版3部作、そして庵野監督の作風にも影響を及ぼしている
富野監督と比較しながら感想を述べたい。

今回の「ヱヴァ」が凄いのはかつてのTV「エヴァ」を超える可能性を秘めてる所だ。
「序」の時はまだおぼろげだったが、「破」を見て、その確信がさらに強まった。
映像メディアでもマンガでも何でもいいが、リメイクや続編は本家を超える事が出来ない。
ほとんど無理であると言っても良い。「ヤマト」しかり「北斗の拳」しかり。
理由は作品によってまちまちだが、大きな理由は作品は時代の産物でもあるから、
その時代で無いと意味を成さない場合が多いからだ。
今回の「ヱヴァ」はその辺りをきちんと汲み取ってテーマなり話を
今の時代の「エヴァ」にちゃんとカスタマイズしているように感じる。
端的に言えば、シンジもいつまでもくよくよしてちゃ駄目だって事だろう。


ちょっと前に劇場版Zガンダムの3部作の総集編があった。
TVでは自らのニュータイプ力の増大により精神を崩壊させたカミーユ。
劇場版ではそのカミーユを穏やかな性格にして精神を崩壊させず
幸せな結末と迎えさせるというのが話のコンセプト。
このコンセプトは嫌いではないが、新規カットと旧シーンがごっちゃで中途半端すぎ
やはりどう擁護しても映画としての体裁に欠けてしまう点と
カミーユ以外のキャラがあんまし膨らまなかったのが残念だった。
Zの映画はTV版を超えられなかったと思うのが結論だ。

今回の「ヱヴァ」はZ劇場版を反面教師にして作られているらしい。
それはZ劇場版の商業的成功が「ヱヴァ」も同様にっていう流れらしい。
「ヱヴァ」も最初はZ劇場版ぐらいの感覚の総集編だったようだが、
Zの二の轍を踏む、つまり中途半端な出来になるとの事で、全編作り直しに踏み切ったらしい。
この決断は本当に「ヱヴァ」のクオリティを底上げできた決断だったと思う。

庵野監督はZ劇場版だけでなく、ガンダムそして富野監督を参考にしてると思われる。
庵野監督は今回の「ヱヴァ」を「ガンダム」のようにしたい、
つまりシリーズ化させ、理想は自分が携わる事なく展開する事を考えている。
その為の第一歩として今回の「序破急」なようだ。

そして富野監督が「ガンダム」の権利・原作権を手放したために、
作品作りが大きな意味でコントロールできない状況を間近で見ていたので
自分が権利を所有し作品をコントロールしたいと考えていたようである。

その為に原作権は絶対手放さず、最初から作品内容だけでなく宣伝や商品展開までも
自分でコントロールしつづけたのが「エヴァ」だった。
そして、今回の「ヱヴァ」にあたっては、メインホームだったガイナックスから独立し
自らのスタジオ「カラー」を設立。ジブリの宮崎監督のように自分の采配が
完全に揮える環境作りを整えた。

さらに何より凄いのは、興行や配給といった部分をもコントロールしている所だ。
配給まで自社カラーが担当しているのは本当に凄い。
こうした利権のめんどくさい所まで手掛けるのはアニメの監督としては珍しい。
しかしそういった所までコントロールしないと自分の「ヱヴァ」が伝わらないと
考えている庵野監督の心意気なのだろう。

Z劇場版の最大の差はそこで、製作上のシステムやスタッフの人選、予算の質が
全然違う、というかそれを含めた作り手の本気度が違うのだ。
勿論Z劇場版が手抜と言うわけではなく、今回の「ヱヴァ」が凄いのだ。
Zも20年のブランクがあるから、最低全カット新規作画でやるべきだったし、
予算も1本1億の予算でお茶を濁すような感じにしてほしくなかったのが本音だ。
富野監督もやるからにはもっとちゃんとした環境でやりたいだろうけど、
原作者としての権利も殆ど無く、自分の会社も無い雇われ状態の監督の身としては
ああいう形でZを仕上げるのが限界だったのだろう。

ともかく「ヱヴァ」は庵野監督が全ての面で指揮をしている。
この心意気の熱さ、完璧主義の極みなスタイルが「ヱヴァ」が面白い最大の理由だと思う。

ただ個人的に庵野も好きだが、富野にはもっと日の目が当たってほしい!!
 
「破」の本編の感想は→【マリ】ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 【感想】
 
このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2009/06/29 17:38 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(17)

BSアニメ夜話 「海のトリトン」【感想】 

富野由悠季の監督デビュー、そしてラストが衝撃的な作品。
ラストもだけど、全編今ではありえない過酷で苛烈な話なんだと再認識した。
そして羽根章悦さんのトリトンには色気があるなぁと思った。

岡田斗司夫が本作をフロイト的解釈で語っていた。(ex:オリハルコンは少年のペニス)
確かに改変しているとはいえ、原作はフロイト的解釈をしてくれといわんばかりの
作風な手塚治虫で、監督は富野なのだからこの見方はどうしても外せないと思う。

製作現場、もしくは当時の富野監督が意識してないにしても
無意識下であったんじゃないかなぁ。特に少年の成長をテーマにするからには、
性の問題をちゃんとやらないと駄目だろうという意識は絶対にあったと思う。

後は岡田がトリトンを富野作品であると同時に西崎作品であり、
トリトンから西崎のヤマト、富野のガンダムという流れになったという指摘は見事。
トリトンは70年代末のアニメブームの醸成に本当に大きく貢献し、
アニメの見方を大きく変えた(特に視聴者側にとって)作品だと思う。
 
このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2009/02/26 01:06 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(0)

BSアニメ夜話 「ジャイアント・ロボTHE ANIMATION」 

BSアニメ夜話 「ジャイアント・ロボTHE ANIMATION」

簡単に。本編映像を見ると、余りの作画のクオリティの高さに目がクラクラする。
90年代のアニメの底力は半端ではない。(マクロスプラスとかEVA劇場版とか)。
記憶が曖昧になってるから見返したいものだ。

番組的にも出演者がある程度論争的に絡めて番組としても中々良かった。
まぁ元々突っ込みやすい作品で語りやすいのもあるけど。

あとスタッフについて一つ
監督は今川泰宏でキャラクターデザインが窪岡俊之・山下明彦・小曽根正美。
今川は富野の下で修行をし、窪岡・山下・小曽根は湖川主催のビーヴォー出身。
つまりイデオンやダンバインを作った富野/湖川ラインという黄金コンビの
それぞれの弟子筋が作った作品がジャイアント・ロボなんだよなぁ。
直接的な因果は無いのだろうが、何か歴史の流れを感じる。
 
このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2009/02/25 01:18 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(2)

工学的思考が新しい時代を拓く-インタビュ-富野由悠季 

今日、朝日新聞を見たら富野監督のインタビューが。
どうやら各大学の工学部のPR広告の企画で富野監督にインタビューしているみたい。



工学的思考が新しい時代を拓く
朝日新聞2009年1月19日広告特集 築く工学部へ行こうより!


地球有限論立脚して思考すべき時代

 昨今、世界を取り巻く状況を見ていると、21世紀という時代が、前世紀とは根本的に違うものになってきたという事を実感します。つまり20世紀というのは、常に右肩上がりに発展する文明論だったといえます。ところが、石油の埋蔵量といった資源の問題とか、温暖化といった環境問題のことを考えれば、地球というのは有限論なんです。有限の中で何十億という人類が1万年も、2万年暮らしていけるわけがない。今までのような右肩上がりの無限論は、一切通用しないのが21世紀なんです。

21世紀型問題解決ニュータイプ世代役目

 では、人類がこの有限の地球で生き延びていくにはどうするか。それはもう、資源を大切に使いましょうなんていう観念論では済まされません。例えば、20世紀後半から問題となっている地球温暖化は、18世紀後半から始まった産業革命以降、人類が使った化石燃料から排出される温室効果ガスの濃度が著しく上昇したことによって起きているといわれています。今すぐみんなで冷暖房を使うのをやめたって、温暖化がすぐに止まるはずがない。だから観念論ではなく、システム論、つまり工学、エンジニアリングという視点からものを考えなくてはならないのです。ものを消費しなければ生きていけないわれわれが、ものを消費を完全にリサイクルできる「循環工学」があり得るかと問われたときに、あり得ないというのは簡単です。でも、そういう前提に立っていたら人類は自滅するだけです。1997年に京都議定書が議決されましたが、この10年間でどんな進展がありましたか?工学をベースにして、旧態依然とした政治や経済という視点を叩き潰していかない限り、21世紀型の問題は突破できないと僕は思ってます。

 ただ、工学の思考回路で地球有限論に立ち向かっていくことを、僕らのようなオールドタイプの人間に任せてもダメだという気がします。自分と同年齢の優秀な方々を見ていると、どうも専門分野に特化しすぎていて、さまざまな技術を横につなぐという回路を持っていないと感じているからです。今、高校生ぐらいのニュータイプに、君たちが30歳くらいになるまでにやってくれと頼みたいのですが、若い世代の理工系離れが進んでいるわけですから、事態は深刻です。

向かう感性育てて理工系離れ食い止めろ

 この一番の要因は何なのか。僕は、やはりコンピューターゲームかなと思っています。ゲームというのは、決定的に自己埋没するシステムなんです。一方、工学というのは、どうしたら目指す成果に結びつけられるかということを追求していくもの。成果というのは、社会へ作用するものということです。社会でどういうふうに、ある技術を運用できるのか、そお手法を構築していくのが工学なのです。ゲームという自己閉塞する行為に染まった子どもが、外の世界に目を向けるわけがありません。この世代の理工系離れを食い止めるために最も重要なことは、親や教師が子どもたちを外に向かわせる感性を育ててやることでしょう。工学というのは、実はアートでもあります。だから、原理原則を見つめていくデッサン的感覚は必要です。昆虫採集や、カエルの解剖、モーターの分解でもいいんですけど、実験の積み重ねによって、何かグチャグチャしていることが、ある方向へ集約されることもあるのだ、ということを示すような理科教育が、もっと行われていくべきだと思います。

絵空事ではない現実立ち向かう工学面白い

 もう間もなく高校を卒業するという学生さんで、工学部を目指すという方には、こう申し上げたい。君たちの多くは自己閉塞するシステムの中で、ここまで成長してしまいました。だからこそ、あえて今、外に向かっていく己というものをつくっていかなければいけない、と。エンジニアにとって一番大事なことは、自己表現すると同時に、社会に技術を投下しなければならないということです。その技術とは環境を破壊するものではなく、リサイクルがきいて、10年後、100年後の地球や日本列島という「地力」を喚起するような技術です。そういう思考回路が必要とされているときに、6畳一間、4畳半一間の狭い世界に埋もれていて済むと思うな!ってことです。

 今から30年前に『ガンダム』をつくりましたが、そのときの想定は増えすぎた人口に地球の質量が耐えられなくなったということでした。が、もはやこれはサイエンスフィクションという絵空事ではなくなってしまいました。20世紀までの科学技術や工学的な知で示されていない新しい工学論を、君たち若い世代が構築していくのだと考えれば、工学はまず間違いなく面白い学問であり、実学でもあります。それこそ全人生をかけて取り組むべきものだと信じています。




 富野監督は高校受験で工業高校を志望していたが、受験に失敗し、工学科に入れなかった事が人生最初の挫折だったと過去のサンライズHPにあったオリジナルの肝という企画で高橋良輔に語っていたのを思い出した。本当に工学に憧れてたんだなぁと富野監督の工学にたいする想いが垣間見られたインタビューに感じられた。

このエントリーをはてなブックマークに追加 follow us in feedly
[ 2009/01/19 09:36 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(0)