「かぐや姫の物語」は人間の業の肯定の物語である 

高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」を鑑賞。

この作品は、かぐや姫が地球で生まれ、育ち、人と出会い、そして月へ帰る。
かぐや姫が生きる中で起こった出来事の喜怒哀楽を見事に切り取った、
タイトル通り、「かぐや姫の物語」といえる作品だ。
そんな「かぐや姫の物語」は人間の業を描いた作品であるともいえる。

「かぐや姫の物語」におけるかぐや姫の人物像。そして感情。

本作を見て一番強く思ったのは、
この作品のかぐや姫はなんてワガママで感情の強い女の子だということだ。

見るまで気づきもしなかったが、私は原作の「竹取物語」という作品の名前は知っていたが
かぐや姫という人物が物語で抱く感情を全く知らなかったことに気づかされた。

原作の古典「竹取物語」は教科書の授業で触れた程度でしか知らなかった。
そして授業で教わったことを、今思い返してみても、
かぐや姫がどういう感情を持つ人物なのかわからないことを思い出した。

そんな原作ではよくわからないかぐや姫が
「かぐや姫の物語」を見ると、感情の強い女の子であることがよくわかる。
かぐや姫の感情がわかるから、かぐや姫に興味が沸き、ひいてはドラマにも興味が沸くのだ。

喜怒哀楽を肯定する かぐや姫という人物

かぐや姫は、捨丸達と一緒に自然の中でたくましく生きる。
また、炭焼きの老人に話を熱心に聞く点を見ても、
自然の生態やそこでいきる人々の仕事ぶりに興味を抱く女の子だ。

自然に興味があるだけでなく、
都に移り住んでからの、高貴な姫として習う琴などの教養や礼儀作法にも、
わずらしさを感じながらも、きちんと身につけていく。
おそらく人の営み全てに興味があるのだろう。

育ての親である翁や媼を人一倍想い、
子供時代に一緒に遊んだ捨丸達の事をずっと想い、
一方で自分の望まない、宮中の高官達への求婚に対し
無理難題を突きつけ、力強く拒否する。

難題の品を持ってきた高官達の品が嘘だったり、
石作皇子の本性を暴いては、笑いながらも
一方で無理難題を突きつけた石神中納言が
難題に立ち向かい不慮の死を迎えたことにはひどく心を痛める。

作法の師である相模に、高貴な姫は口を開けて笑ったりしないという主張に
強く反発するなど、とても喜怒哀楽が激しく、感情そのものを是とする態度。

高畑勲監督的にいえばかつて手がけた、
「アルプスの少女のハイジ」や「赤毛のアン」のような
力強く感情を持って生きる、でも複雑な感情も抱く女の子として描きたかったのだろう。

かぐや姫にとって生きるということ

帝の求婚、および帝に身体的に接触し、月にSOSを発信してしまったことで
かぐや姫は月に帰らなくてはいけないことになった。

このSOSを出してかぐや姫は自分の正体・存在を知り
ひいては地球にやってきた理由も知る。

かぐや姫は地球に住む人というものに興味があったのだろう。
その人の生きる営み、喜怒哀楽という感情、
それを触れたい、感じたい、表現したい。
捨丸との邂逅でもわかるように、恋もしたかったのだろう。

かぐや姫は、月の住人に忌み嫌われるような喜怒哀楽を出し、時には人をだまし裏切る、
そんな人として当たり前の生きることそのものを行いたかったのだ。

月と地球の対比 非感情と感情

なぜそこまでかぐや姫が感情的に生きたいという気持ちがわからなかったが、
かぐや姫を迎えに来る月の住人達の描写をみてわかった。

月の住人は仏像の面をしており、感情的ではなく解脱したかのような存在として描かれる。
雲に乗ってきて、かぐや姫を守るために集まった人を眠らせるなど
極楽浄土的なイメージの存在にも映った。

この非感情的、解脱的な月の住人の姿を見て、
かぐや姫が追い求めていた生きようが、やっとわかった。
かぐや姫は月の住人とは逆の、感情的で煩悩に苦しみながら
生きている実感をもって生きるのを知りたかったのだ。

「かぐや姫の物語」は人間の業を肯定する物語

落語家、立川談志は落語の事を「落語は人間の業を肯定である」と言った。
寝てはいけない状況でも寝る、酒を飲んではいけない時に飲む、
そんな人間の弱さ脆さ、つまり業を肯定するのが落語だと言った。

「かぐや姫の物語」も「人間の業を肯定した物語」だと私は思う。

高貴に暮らすことがかぐや姫の幸せだと思い込み、
自身の願望と知らず知らずに重なっていた翁。
翁の想いがかぐや姫の本心とは違うと知りながらも、強くは止めなかった媼。
かぐや姫の気持ちは知らずに求婚し、その最中でかぐや姫を騙そうとした宮中の高官達や
全ては自分の思うがままになると思い込んでいた帝。

そんな人は、生きることで弱さや脆さなどを見せつつも、
それでもあがき生きているその姿こそに意味がある。生がある。
その生を肯定する物語が「かぐや姫の物語」という作品であると私は思う。

田辺修さんの作劇 男鹿和雄さんの美術

この作品を語る上で、
人物造形・作画設計:田辺修さんと美術:男鹿和雄さんは欠かせない。

人と美術背景が一体化したアニメーション、
輪郭線を閉じない線、塗りつぶしを行わない試みは、
とても労力のいる試みであったのは、想像に難くない。

高畑さんの人物の造形や芝居のアイディアを田辺さんがまとめ、
男鹿さん達が作品世界を支える背景を描く。

淡い色彩でこれまでにない丁寧な筆致で描かれた人物作画と美術背景。
西洋から伝わった従来のアニメーション的な手法から解き放たれ、
この日本的な絵のもとで、日本の古典が描かれたのが
「かぐや姫の物語」の醍醐味の一つといえるだろう。
まさにこの作品に最もふさわしい表現手法だったと思う。

製作:氏家齊一郎さんの存在

この作品は、日本テレビの会長であった故氏家齊一郎さんの
「高畑勲監督作品を作りたい。金はオレが出す」という鶴の一声がキッカケだったという。

渡邉恒雄さんの盟友といわれた氏家齊一郎さんは、
徳間康快さん亡き後のスタジオジブリのパトロンになり、
ルーブル美術館を借り切って高畑監督・宮崎監督に鑑賞させたこともあるなど、
スタジオジブリを強力にサポートされていたようだ。
(※ジブリの冊子「熱風」の2011年5月号では亡くなられた氏家氏の特集を組まれた)

本作のパンフレットの中で企画:鈴木敏夫氏が採算性の不安を指摘したように
不安要素が多くある企画だったのだろう。でも氏家さんという重石があったからこそ
この作品は完成し世に送り出せたと最後に鈴木氏は締めている。

氏家さんの断固とした想いがあったからこそ「かぐや姫の物語」は世にある意味で
出資者は作品作りには直接手を下さないが、それでも作品作りには大きな影響を与える。
そして優れた作品には優れた態度で望む出資者がいる事を思い知らされた作品でもあった。

まとめ

捨丸という人物を新たに仕立て、自然(故郷)と都会(都)という構図を用いるなど
原作の物語を再構成し、かぐや姫に感情という血肉を与え、
かぐや姫を、心に残る人物に仕立て上げた作劇。

原作「竹取物語」では見えにくかった、かぐや姫が生き生きと描かれ
かぐや姫の地球での生き様を通して描かれる
人間の生の営みの肯定、人間の業の肯定が描かれた作品だった。

地井武男さん、高畑淳子さんなど、役者さんの演技も光る作品だった。

日本最古の古典に焦点を当て、古典を再び輝かせ
1000年先を見据えたかのような作りにおいて
これから語り継がれていくであろう「竹取物語」には
「かぐや姫の物語」の存在が欠かせないものになるだろう。
古典の授業でもこの作品は参考として使われるのかもしれない。

宮崎駿監督と拮抗し続けた高畑勲監督による日本的物語の到達点。
それが「かぐや姫の物語」なのだと思う。
 
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[ 2013/12/01 18:30 ] かぐや姫の物語 | TB(23) | CM(2)