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「言葉」の物語としての「心が叫びたがってるんだ」論 

「心が叫びたがってるんだ」を鑑賞。
少年少女たちの青春と恋の酸いも甘いも凝縮した物語だった。

決して泣くわけではなかったが、
不思議と満足した余韻がじわじわ心に広がっていく感じだった。

青春と言葉

物語を追っていて明確になっていく
「言葉にしないと想いが伝わらない」という事は頷け、
共感をもって受け止めることができた。

一方で物語冒頭で、成瀬順が母に父親の不倫現場の瞬間を喋ったことで
成瀬家が崩壊する出来事で、「言葉」は人を傷つける事を思い知らされる。

青春時代は特に「言葉」に敏感になる。
些細な言葉の行き違い、使い間違い、乱暴な言葉が誤解や無理解を呼び
田崎大樹と野球部員のケンカのように、非難や衝突にもなる。

逆に言葉の使うタイミングや誠意ある言葉(態度)は人の心を動かす。
成瀬順が喋れないと罵倒した田崎大樹が、その後成瀬順が頑張る姿を見て
クラスメイトに地域ふれあい交流会の催し物をミュージカルでやりたいと提案し、
やる気が無かったクラスメイトの心を動かしていく。

「言葉」が人を動かし、その「言葉」を発する源は
「言葉」を使う人の心の切なる叫びだ。
その叫びが切実であるほど人の心を動かしていく。

物語後半では、成瀬順が自身に課した呪いを振りほどき、
坂上拓実に告白した恋は、坂上拓実の心を動かした。
いつもあいまいな「言葉」づかいで距離を詰めない
坂上拓実もまた成瀬順の告白によって、心を動かしたのだ。

自分の言葉が招いた両親の離婚で「言葉」を封印した成瀬順。
同じく両親の離婚で、あいまいな「言葉」で誤魔化してきた坂上拓実。
坂上拓実との付き合ってきた仁藤菜月も「言葉」をあいまいにして生きてきた。
肘の怪我で野球ができない田崎大樹は、乱暴な「言葉」を使い鬱屈していた。

本作「心が叫びたがってるんだ」は、彼ら4人が「言葉」を様々な意味で閉ざしたことで
生まれてしまった鬱屈や悩みを、成瀬順とミュージカルがふとしたキッカケで結びつき、
4人の叫びたがっている心を再び「言葉」によって解放する物語であった。

さながらそれは城嶋先生が事あるごとに言っていた
「ミュージカルには奇跡がつきものだって」という言葉にもつながる。
彼ら4人の心が解放されるのも「奇跡」なのだと。
もしかすると「心が叫びたがってるんだ」が制作できたこと自体が
奇跡だったのかもしれない。

作品作りと言葉の力

ミュージカル制作においてクラスメイトを説得するのと同じように、
おそらくアニメの制作も「言葉」が必要なのだろう。
ミュージカルもアニメも何かを作るという点で変わりはないのだから。

特に本作のようなオリジナルアニメを制作するのは、
企画段階においては無から有を作ることであり、
「言葉」を駆使して企画と物語を詰めていくことになる。
また何百人ものスタッフが関わるアニメ制作において
スタッフを参加させるには「言葉」での説得は不可欠である。

ここさけのミュージカル制作は、さながらこの作品自体が
どう作られているのかという縮図に見せているようにも感じた。
アニメを製作していく、スタッフに参加を求めていくのも、
田崎大樹のクラスメイトへの説得みたいなやりとりがあるのだろう。

ミュージカル制作もオリジナルアニメ制作もまず
成瀬順の「言葉にならない言葉」を「言葉化」することから始まり
その「言葉」に力があれば、作品作りの大きな力となっていく。

アニメ制作者とメインキャラクターの関係性

クラスメイトが動いたのは、成瀬順が描く物語に坂上拓実が共感し、
その想いがクラスメイトに伝播する。
成瀬順はミュージカルの原作者でもあり脚本家でもあった。

この成瀬の物語に坂上拓実はピアノの経験を生かし
演出家がタクトを振るように成瀬の心の中にある物語を開かせていく。

仁藤菜月は坂上拓実・成瀬順・田崎大樹の3人の中では
こうしようああしようという提案は行わず、周りの調整役に徹したと思う。


「作品は現実の自分のポジションと無関係ではない」と富野由悠季氏は言っている。
この言葉を踏まえて以上の事を振り返ると、
成瀬順は本作の物語の骨子をまとめた岡田麿里さんの分身でもあり
調整役に徹した仁藤菜月は、企画の調整役も担うもう一人の岡田さんの分身でもある。

成瀬順の物語を引き出す坂上拓実は、監督の長井龍雪さんに当てはまり
現場を動かした田崎大樹は、田中将賀さんに当てはまるのではと思った。

まとめ

玉子を、殻を割る・もしくは王子としての暗喩、
きみと君、のようなダブルミーニングを使い、
物語上に様々な仕掛けを施した構成。

「言葉」が使えない成瀬順を表現するために、
些細な所作や芝居を細かくつけることで、
成瀬順のキャラクター像を明確にした作画。

携帯電話やスマホの通信機能も、効果的に取り入れ
現代的な物語に仕立て上げることにもなった。

そして4人とクラスメイトの物語を支えたのが
様々な場面で違う町並みを見せることで物語の重層性を与えた
秩父というローカルな舞台であった。

大手住宅メーカー的な建築の成瀬の家と
昔ながらの大工が立てたような古民家的な坂上の家が
秩父の町並みに同居する面白さ。
ジョナサンやローソンもあれば、電車も神社や畑も山ある。
古きものと新しきものが混在に凝縮された魅力が秩父にはある。


何より「言葉」というテーマは重く、どんな人も避けては通れないものだ。
どうしたら人を傷つけないようにできるのか。
どうしたら人の心を動かせるのか。
そんな苦しみを抱えながら、人は生きている。

「心が叫びたがってるんだ」は上記の「言葉」で起こる人生の問題を
青春と恋と秩父という舞台を用いて、描いた作品なのだろう。
4人の本当の物語はこれから始まるのだから。
そう期待させたくなるようなラストだった。
 
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[ 2015/09/20 16:28 ] アニメ映画 | TB(0) | CM(1)

夢と狂気の王国-始まりの東映動画、終着点のスタジオジブリ 

はじめに

「夢と狂気の王国」を見た。



「風立ちぬ」「かぐや姫の物語」製作時のスタジオジブリと
とりわけ宮崎駿・鈴木敏夫・高畑勲の3人に焦点を当てたドキュメンタリー映画である。
今回はこのドキュメンタリー映画について語りたいと思う。

宮崎駿・鈴木敏夫・高畑勲

ジブリのドキュメンタリーは前にもあったが、
今回は砂田麻美監督自身による女性の視点からの撮影が
今までのジブリのドキュメンタリーとは違っていて新鮮だった。
特に制作の三吉さんなど女性スタッフにも多くインタビューを行い
女性視点のジブリという描かれ方をされていたのが興味深かった。

砂田監督の視点は「風立ちぬ」等の作品に迫るドキュメントというより
スタジオジブリという会社組織に生きる人々の日常を追っかけていくという感じだ。
そんなスタッフ達を自然な感じに撮影している点に
このドキュメンタリー映画の上手さだと感じた。
砂田さんの撮り方、撮る前の段取りが上手いのだろう。

宮崎さんも、撮影されている砂田さんが女性の映画監督という事もあり
撮影中も敬意を持って受け答えしている印象を持った。
前のドキュメンタリー「崖の上のポニョはこうして生まれた」では
宮崎さんが、時たま撮影者に説教的な感じで語っていた点とは対照的だった。

それにしても宮崎さんはその存在自体が面白い。
何にしても強烈な人であることは、伝わってくる。

そしてジブリの番頭である鈴木敏夫さんは、精力的に人と会い、打ち合わせをする。
また宮崎さんがジブリを出て仕事をする場合は必ず傍に寄り添う。まさに女房。
個人的には、庵野さんを助手席に乗せて自分で運転しているシーンと、
ラストあたりの風立ちぬのコンテを読む姿が印象的。

高畑勲さんは殆ど姿を現さないが、やはりジブリの根っこは彼にある事を再認識。
高畑さんがいたからこそ、今の宮崎さんがあって、
その二人と出会った鈴木さんが揃ってジブリになったと思う。

一方で「かぐや姫の物語」を全く完成させようとしない高畑さんに対し
30年の付き合い鈴木さんでさえ「理解不能」と言わせてしまう業の深さ。
高畑さんは映画を完成させる事以上に、映画をいつまでも作り続けたいと
思わせる鈴木さんのボヤキだった。

そんな中で、高畑さんと足掛け8年間寄り添い
「かぐや姫の物語」を作り上げた西村義明プロデューサーの存在が頼もしかった。
おそらくジブリで一番難しい仕事は「高畑勲に仕事をさせて映画を完成させる事」
であろうし、それは今の鈴木さんでもできない事でもあるが、
この高畑勲の映画を完成させる事を実現した西村さんなら
今後のジブリの未来を任せられると感じた。
※鈴木さんは現場のプロデュースを西村さんに任せたようだ。

夢と狂気の王国

ドキュメンタリー中で宮崎さんは「風立ちぬ」で映画を作ることは最後だと言っていた。
それは夢の終わりでもあると言う。東映動画に入社しジブリに席を置いてから50年。
夢の終わりとは戦後の日本アニメの出発点の一つである東映動画出身の
宮崎さんと高畑さんによる長編漫画映画制作のイズムの終わりでもあるのだと思う。

そんな長編漫画映画は狂気によって作られる。
その狂気は表面的に激しいものではなく、
机に向かってコンテを切り、原画を描き、カットを修正するという
アニメーション制作の淡々とした積み重ねによるものから生まれる狂気。

このスタジオジブリという王国は、創業者たちの夢が終わりつつも
一方で西村さん達が映画製作という夢と狂気を引き継ぐ。
そんな瞬間を見せてくれたドキュメンタリーだったと思う。

終わりに

後半に宮崎さん、鈴木さん、高畑さんのスリーショットがあり、
この3人が残した足跡とアニメ界における貢献度の大きさを感じさせた。

そして戦後の商業アニメーション界のパイオニア達が一線を退く形を迎える姿を見て
2010年代は今まで以上に新しい世代がアニメ界を引き継いでいく事も感じさせた。
 
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[ 2014/06/23 20:27 ] アニメ映画 | TB(0) | CM(0)

「かぐや姫の物語」は人間の業の肯定の物語である 

高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」を鑑賞。

この作品は、かぐや姫が地球で生まれ、育ち、人と出会い、そして月へ帰る。
かぐや姫が生きる中で起こった出来事の喜怒哀楽を見事に切り取った、
タイトル通り、「かぐや姫の物語」といえる作品だ。
そんな「かぐや姫の物語」は人間の業を描いた作品であるともいえる。

「かぐや姫の物語」におけるかぐや姫の人物像。そして感情。

本作を見て一番強く思ったのは、
この作品のかぐや姫はなんてワガママで感情の強い女の子だということだ。

見るまで気づきもしなかったが、私は原作の「竹取物語」という作品の名前は知っていたが
かぐや姫という人物が物語で抱く感情を全く知らなかったことに気づかされた。

原作の古典「竹取物語」は教科書の授業で触れた程度でしか知らなかった。
そして授業で教わったことを、今思い返してみても、
かぐや姫がどういう感情を持つ人物なのかわからないことを思い出した。

そんな原作ではよくわからないかぐや姫が
「かぐや姫の物語」を見ると、感情の強い女の子であることがよくわかる。
かぐや姫の感情がわかるから、かぐや姫に興味が沸き、ひいてはドラマにも興味が沸くのだ。

喜怒哀楽を肯定する かぐや姫という人物

かぐや姫は、捨丸達と一緒に自然の中でたくましく生きる。
また、炭焼きの老人に話を熱心に聞く点を見ても、
自然の生態やそこでいきる人々の仕事ぶりに興味を抱く女の子だ。

自然に興味があるだけでなく、
都に移り住んでからの、高貴な姫として習う琴などの教養や礼儀作法にも、
わずらしさを感じながらも、きちんと身につけていく。
おそらく人の営み全てに興味があるのだろう。

育ての親である翁や媼を人一倍想い、
子供時代に一緒に遊んだ捨丸達の事をずっと想い、
一方で自分の望まない、宮中の高官達への求婚に対し
無理難題を突きつけ、力強く拒否する。

難題の品を持ってきた高官達の品が嘘だったり、
石作皇子の本性を暴いては、笑いながらも
一方で無理難題を突きつけた石神中納言が
難題に立ち向かい不慮の死を迎えたことにはひどく心を痛める。

作法の師である相模に、高貴な姫は口を開けて笑ったりしないという主張に
強く反発するなど、とても喜怒哀楽が激しく、感情そのものを是とする態度。

高畑勲監督的にいえばかつて手がけた、
「アルプスの少女のハイジ」や「赤毛のアン」のような
力強く感情を持って生きる、でも複雑な感情も抱く女の子として描きたかったのだろう。

かぐや姫にとって生きるということ

帝の求婚、および帝に身体的に接触し、月にSOSを発信してしまったことで
かぐや姫は月に帰らなくてはいけないことになった。

このSOSを出してかぐや姫は自分の正体・存在を知り
ひいては地球にやってきた理由も知る。

かぐや姫は地球に住む人というものに興味があったのだろう。
その人の生きる営み、喜怒哀楽という感情、
それを触れたい、感じたい、表現したい。
捨丸との邂逅でもわかるように、恋もしたかったのだろう。

かぐや姫は、月の住人に忌み嫌われるような喜怒哀楽を出し、時には人をだまし裏切る、
そんな人として当たり前の生きることそのものを行いたかったのだ。

月と地球の対比 非感情と感情

なぜそこまでかぐや姫が感情的に生きたいという気持ちがわからなかったが、
かぐや姫を迎えに来る月の住人達の描写をみてわかった。

月の住人は仏像の面をしており、感情的ではなく解脱したかのような存在として描かれる。
雲に乗ってきて、かぐや姫を守るために集まった人を眠らせるなど
極楽浄土的なイメージの存在にも映った。

この非感情的、解脱的な月の住人の姿を見て、
かぐや姫が追い求めていた生きようが、やっとわかった。
かぐや姫は月の住人とは逆の、感情的で煩悩に苦しみながら
生きている実感をもって生きるのを知りたかったのだ。

「かぐや姫の物語」は人間の業を肯定する物語

落語家、立川談志は落語の事を「落語は人間の業を肯定である」と言った。
寝てはいけない状況でも寝る、酒を飲んではいけない時に飲む、
そんな人間の弱さ脆さ、つまり業を肯定するのが落語だと言った。

「かぐや姫の物語」も「人間の業を肯定した物語」だと私は思う。

高貴に暮らすことがかぐや姫の幸せだと思い込み、
自身の願望と知らず知らずに重なっていた翁。
翁の想いがかぐや姫の本心とは違うと知りながらも、強くは止めなかった媼。
かぐや姫の気持ちは知らずに求婚し、その最中でかぐや姫を騙そうとした宮中の高官達や
全ては自分の思うがままになると思い込んでいた帝。

そんな人は、生きることで弱さや脆さなどを見せつつも、
それでもあがき生きているその姿こそに意味がある。生がある。
その生を肯定する物語が「かぐや姫の物語」という作品であると私は思う。

田辺修さんの作劇 男鹿和雄さんの美術

この作品を語る上で、
人物造形・作画設計:田辺修さんと美術:男鹿和雄さんは欠かせない。

人と美術背景が一体化したアニメーション、
輪郭線を閉じない線、塗りつぶしを行わない試みは、
とても労力のいる試みであったのは、想像に難くない。

高畑さんの人物の造形や芝居のアイディアを田辺さんがまとめ、
男鹿さん達が作品世界を支える背景を描く。

淡い色彩でこれまでにない丁寧な筆致で描かれた人物作画と美術背景。
西洋から伝わった従来のアニメーション的な手法から解き放たれ、
この日本的な絵のもとで、日本の古典が描かれたのが
「かぐや姫の物語」の醍醐味の一つといえるだろう。
まさにこの作品に最もふさわしい表現手法だったと思う。

製作:氏家齊一郎さんの存在

この作品は、日本テレビの会長であった故氏家齊一郎さんの
「高畑勲監督作品を作りたい。金はオレが出す」という鶴の一声がキッカケだったという。

渡邉恒雄さんの盟友といわれた氏家齊一郎さんは、
徳間康快さん亡き後のスタジオジブリのパトロンになり、
ルーブル美術館を借り切って高畑監督・宮崎監督に鑑賞させたこともあるなど、
スタジオジブリを強力にサポートされていたようだ。
(※ジブリの冊子「熱風」の2011年5月号では亡くなられた氏家氏の特集を組まれた)

本作のパンフレットの中で企画:鈴木敏夫氏が採算性の不安を指摘したように
不安要素が多くある企画だったのだろう。でも氏家さんという重石があったからこそ
この作品は完成し世に送り出せたと最後に鈴木氏は締めている。

氏家さんの断固とした想いがあったからこそ「かぐや姫の物語」は世にある意味で
出資者は作品作りには直接手を下さないが、それでも作品作りには大きな影響を与える。
そして優れた作品には優れた態度で望む出資者がいる事を思い知らされた作品でもあった。

まとめ

捨丸という人物を新たに仕立て、自然(故郷)と都会(都)という構図を用いるなど
原作の物語を再構成し、かぐや姫に感情という血肉を与え、
かぐや姫を、心に残る人物に仕立て上げた作劇。

原作「竹取物語」では見えにくかった、かぐや姫が生き生きと描かれ
かぐや姫の地球での生き様を通して描かれる
人間の生の営みの肯定、人間の業の肯定が描かれた作品だった。

地井武男さん、高畑淳子さんなど、役者さんの演技も光る作品だった。

日本最古の古典に焦点を当て、古典を再び輝かせ
1000年先を見据えたかのような作りにおいて
これから語り継がれていくであろう「竹取物語」には
「かぐや姫の物語」の存在が欠かせないものになるだろう。
古典の授業でもこの作品は参考として使われるのかもしれない。

宮崎駿監督と拮抗し続けた高畑勲監督による日本的物語の到達点。
それが「かぐや姫の物語」なのだと思う。
 
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[ 2013/12/01 18:30 ] かぐや姫の物語 | TB(23) | CM(2)

庵野秀明の「メカと美少女」理論から見る宮崎駿の「風立ちぬ」の構造 

宮崎駿監督の最新作「風立ちぬ」を鑑賞。

大まかにいえば、前半は零戦の設計者である堀越二郎の半生をベースに、
後半は堀辰雄の風立ちぬをベースにして
結核に犯された里見菜穂子とのラブロマンスを描いた作品だった。

また宮崎監督の前作の長編「崖の上のポニョ」では水と海を描いた作品であり
本作では、風と空を描いた作品になっていたのが面白かった。
さらにいえば「風立ちぬ」の水が「ポニョ」を踏まえた表現だったのが技術的に面白かった。

また堀越次郎の顔の骨格が「天空の城ラピュタ」のムスカ大佐と似ていたので、
二郎をムスカの若かりし頃の時代の存在、もしくは生まれ変わりだと思えたので面白かった。

さて全体的に気になったのは、前半の堀越二郎の夢と仕事の物語が
後半では一転したかのようにラブロマンスに変わっていったのが気になった。

そもそもなぜ堀越二郎と堀辰雄という
全く別の二人をモデルにして一人のキャラにまとめなければならないのか。
この疑問を紐解くキーワードを探してみた。

それは「メカと美少女」である。
この言葉は、奇しくも風立ちぬの主役である庵野秀明氏が
師匠である宮崎駿監督を言及した際に用いた言葉である。
以下の庵野秀明氏へのインタビューを見てみよう。

庵野 いや~、もうそれは、アニメファンとかその辺の人のポピュラリティは、メカと美少女ですね。
小黒 行き着く先は、やっぱり「それ」ですか(笑)。
庵野 それが永遠のポピュラリティ。アニメファンの男にとってのポピュラリティは、それ以外には何もないわけでね。とにかくメカと美少女さえ出ていれば、基本はOKですよ。
(中略)
庵野 宮さん(宮崎駿)の時代から何も変わってない。宮さんだって、メカと美少女だよ。(中略)大月(俊倫)さんの分かりやすい企画のあれ……何だっけ、『(機動戦艦)ナデシコ』にしても、その後の『アキハバラ(電脳組)』にしても、もう「メカと美少女さえ出してればOK」っていうのが、丸分かりなんですよ。
小黒 そうですね。
庵野 アニメファンは、そういう分かり易いエサにも食いつくわけです。自分達がどんなに世間からバカにされているのか分かったとしても、これはもう変わらないと思うよ。彼らの求める興味の対象は。
小黒 庵野さん自身、分かっててもやっちゃうわけでしょ?
庵野 自分で。……う~ん、そうじゃないですかねえ。「これでもやってりゃいいんだ」っていうつもりは、ないんですけどね。それはもう、自分がオタクだからしょうがないわけですよ。自分もそうだから分かるけど、やっぱり、メカと美少女だと思うんですよ。
「庵野秀明のアニメスタイル」/『アニメスタイル』BT2000年4月号増刊)

以上のように、庵野氏は2000年頃に以上のような発言をしている。
この意図としては、アニメのポピュラリティは「メカと美少女」が担保していると指摘し
宮崎駿監督の時代から変わっていないと言い、
庵野氏も「メカと美少女」を自覚的に使っていると自己分析する。

この庵野氏が言う「宮崎さんの時代」とはいつの時代か。
推測するに、宮崎さんの初監督作品の1978年放映の「未来少年コナン」から
すでにメカと美少女のモチーフは徹底されていた。
庵野氏の「宮崎さんの時代」は、この頃(1978年)の事を言っているのだろう。
その後も宮崎監督は「メカと美少女」の第一人者として
「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「紅の豚」の作品を作り続けた。

この「メカと美少女」というモチーフは今でも日本のアニメを支えるポピュラリティだ。
例えば、ガンダム・エヴァなどの作品もこのモチーフに属する作品群である。
また今年放映のアニメでいえば「革命機ヴァルヴレイヴ」「彗星のガルガンディア」
「銀河機攻隊 マジェスティックプリンス」「ビビッドレッドオペレーション」などが
「メカと美少女」理論で支えられ作られた作品だろう。

そして「風立ちぬ」も「メカと美少女」理論でできた作品だ。
それは、本作のメカを担う部分として堀越二郎の半生を使い
美少女を担う部分として堀辰雄の「風立ちぬ」を使い、
この二つを足して「メカと美少女」としてまとめたのが宮崎駿監督の「風立ちぬ」である。

堀越二郎の半生だけではメカは成立するが、美少女が成立しない。
堀辰雄の「風立ちぬ」では美少女は成立するがメカが成立しない。
それであれば、この二つを足して
「メカと美少女」を成立させてしまうのが本作の構造なのである。

さすがに「メカと美少女」の第一人者だけあって
こうしたやり方は宮崎駿監督ならではの手法だと思う。
その反面、前半と後半でトーンが変わったように感じてしまう作用もあったのだと思う。

さらに主人公:堀越二郎の飛行機の設計に対する姿勢と
宮崎駿監督自身のアニメ制作(漫画映画制作)に対する姿勢をダブらせている。
本編では、飛行機の仕事は戦争に加担する「矛盾」
仕事のために結婚をする「矛盾」と語られていたが
この矛盾は宮崎監督のアニメを作る事で抱える矛盾でもあるのだろう。

そんな堀越二郎という主人公役に宮崎監督の弟子を自称する庵野秀明氏が担当する。
つまり監督自身を反映させたキャラを、監督の弟子に演技をさせる。
そして「メカと美少女」。構造だけを取り出すと、何とも凄い作品だ。

以上のように、「風立ちぬ」は宮崎駿監督らしい「メカと美少女」を
堀越二郎と堀辰雄の二人の掛け合わせで作ってしまった作品だ。
その意味で「メカと美少女」は70を過ぎた宮崎駿監督にとって切っても切れないモチーフのだ。
つまり「メカと美少女」こそが宮崎駿監督の永遠の夢なのだ(ムスカ談)。

それは、宮崎駿監督の自身の願望を反映させたキャラであろうカプローニが
二郎の夢の中で、たくさんの女性達と一緒に飛行機に乗っていたシーンでもわかる。
だから二郎の夢とカプローニは宮崎駿監督の夢でもある。

これらを踏まえて「風立ちぬ」は宮崎駿監督の夢が詰まった作品であり、
その夢の結晶を「メカと美少女」だと師匠を指摘した
庵野秀明氏が形にした作品なのだと思う。
 
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[ 2013/07/21 14:32 ] 風立ちぬ | TB(0) | CM(0)

マイマイ新子と千年の魔法についての記事 

アニプレッションで
「マイマイ新子と千年の魔法」を映画館で見なかった自分は愚かでした
という記事を書きました。

マイマイ新子は素晴らしい。ただ知名度が不足気味なので
少しでも応援をしたいという気持ちで書いています。

今の時代は作品が生き残るには映像メディア化と商業的成功しなければと思います。
マイマイ新子はDVDされたので、次はBD化されてほしいです。
 
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マイマイ新子と千年の魔法【1回目】 

ネット上で大評判だった「マイマイ新子と千年の魔法」。
個人的には僕の好きなライターさんが物凄くプッシュしていたのが
見たいと思わせる興味のきっかけだった。

実際に見て感じたのは
「感覚ではよくわかるが、細かい描写の意図がわからなかった」
「すごく心に突き刺さったが、それを言葉にできないもどかしさ」
「わからない部分も多い」
という事だ。

正直、わからない所ばかり。でも現実だってわからない事ばかりだ。
だから創作の世界が全て理解できるという感覚も変だ。

良さをまだ言葉にできない。
言葉にすると、その良さが消えてしまいそうで。
そんな繊細でありつつ、豊潤な世界を描いている本作は間違いなく傑作。 

この作品は何度でも見て、感想を書きます。
 
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交響詩篇エウレカセブン : ポケットが虹でいっぱい【感想】 

もう一つのエウレカセブン。
エウレカ=名塚佳織は本当にうっとりするぐらいかわいい。

1時間55分では全く足りない膨大な設定(笑)。
しかしそれを見てる側が理解しようがしまいが、
とにかく時間の限り描写して、一生懸命説明している印象を受けた。
設定を理解するなら、何回も見たりする必要があるが
レントンとエウレカのド直球なラブストーリーと割り切れば
TV版とさしたる変わりが無いとは思う。
といいつつ、設定にテーマ性を盛り込まれている可能性も大なので
誤解したくなかったり、わからなければ、何回も見たほうがいいのかもしれない。

テレビであったカウンターカルチャー的な部分が鳴りを潜めたのは
脚本が佐藤大から京田知己に変わったからだろう。
佐藤大のニュアンスが好みではなかったので、個人的には映画は凄く見やすい。

京田監督は本当にエヴァ好きだなぁと思った。
さすが志願してヱヴァ序に参加しただけの事はある。
そんな本編映像の状況設定やレイアウトも含めて、デジャブによく襲われる。
エヴァを真似する多くの作品はウケたいからそうするのだが、
エウレカは監督がオマージュしたいんだ、大好きなんだという気持ちがひしひしと伝わる。
ただオマージュとパクリは紙一重とも付け加えときたい。
 
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[ 2009/08/16 15:12 ] アニメ映画 | TB(1) | CM(2)