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あいまいみーは理屈を超え、生死も超えたアニメ。 

はじめに

ちょぼらうにょぽみさん原作のあいまいみーは、理屈を飛び越えるアニメだ。
 
前後のつながり、キャラクターの行動動機といった
整合性や辻褄合わせは、この作品に限っては無意味であり
全ては面白さに奉仕するためにキャラクターは存在し行動する。

最終回では、こうしたあいまいみーイズムが爆発。
そこで最終回を通して、理屈を超え、生死を超えたあいまいみーの魅力について語る。

絵柄を合わせない

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今回はミイが、三途の川を渡って死んでしまうかもしれないという所からスタート。

まず、上記の二つの絵を見比べると、ミイの絵柄がまったく合っていない。
髪の描き方、影のつけ方。おそらくカット単位で雰囲気に合う絵柄を選択したからだろう。
また、二つの絵はいまざきいつきさんが作画しているのにも関わらず、この絵柄の違い。

つまり絵柄の統一感は、あいまいみーでは意味を成さない。もしくは優先度が低い。
一つのキャラに対して一つの絵柄に囚われない作画。
この描き方が、あいまいみーの世界を自由にしているのだ。

前後の繋がりを感じさせない展開

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次にミイが倒れてしまう経緯が描かれる。

ミイはツナをダブルで・・・言い、ミイをサンドイッチの神と評する麻衣。
そして突如、獅子舞で踊りだすミイという流れでカットが繋がれる。

文章で書くと全く意味がわからない。そんな飛躍した繋ぎ方。
この場面には理屈などは存在しないだろう。
その場、その場で、面白いことを数珠繋ぎしていく形のギャグの見せ方だ。
例えるなら、立川談志が提唱したイリュージョン落語の世界に近い。
これがあいまいみーの世界なのである。

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またミイが倒れてから、病院へのシーンに同ポ的・同じカメラアングルで繋いでいくのも凄い。
三途の川の世界と現実世界がシームレスに繋がる瞬間。
これが今後の生死を超える布石にもなるだろう。
ちなみにここでも絵柄の統一は全くなされていない。

全く意味がないルーカスの存在

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そんな危篤のミイの前にやってくるのがルーカス秋本。
病室に入り「おでん食いたい~」と言い、新作の「すり足」を披露する。
ルーカスの行動には全くもって意味がなく、シュールな空間を醸し出す。
ひょろっとしたルーカス秋元の絵柄もまた面白さを引き立たせる。

そしてこのシュールさに輪をかけるのが、絵柄の不統一感。

・ルーカス秋本
・愛たち
・看護婦
・老医者

以上の四つで絵柄のレベルが全く違うために、一つの画面で四層の絵柄が存在しているのだ。
これが画面の混沌さによる、可笑しみが生じる。

さらに

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ミイから愛を見るようなカメラアングルに切り替わった際には、
俯瞰で病室を映したカットでは存在した、カルテを書いている看護婦がいない。
愛・麻衣の後ろにいるルーカスのすり足を、違うアングルで見せたい為に消されたのだろう。
面白さの為に、さっきまで存在したモブキャラすら容赦なく消す。

生殺与奪が平然と行われるのもあいまいみーの世界の魅力だ。

ルーカス秋本の元ネタ?

閑話休題。このルーカス秋本の元ネタかもしれないものを紹介する。
それはダウンタウンのごっつええ感じの
「お見舞い」「スター」「経て」といったお見舞いシリーズだ。

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(ダウンタウンのごっつええ感じの「お見舞い」から)

入院中の浜田のもとに、
松本扮する世界一位やグランドチャンピオンを名乗る男がやってきての
意味不明なことを言うだけ言って帰るのが、基本パターンのコントだ。

ルーカス秋本との共通点は、素性が知れない、シュールな行動、病室のやり取り。
という三点だが、ふとルーカスの存在で頭によぎったのは
ダウンタウンのこのコントだったので、参考までに紹介させて頂く。

生死を超越するあいまいみーの世界

ついにミイが死んでしまう瞬間。

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ミイが事切れて、愛が絶句するシーン。相変わらず絵柄が自由だ。

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(何気に復活している看護婦)

そこにぽのか先輩が現れる。
ぽのか先輩は、ミイをツボに入れると、

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「健康最高!」
と共にミイがツボと共に復活。ミイは世界中を飛び回りながら本編は終了。
このシーンを見て「あいまいみーは生死を超越した」と改めて思った。
生も死も全て、笑い/ギャグのためにある作品なのである。
そこには理屈は全く存在しない。作り手(原作者とアニメスタッフ)の感情があるのみである。

おわりに

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以上のようにあいまいみーは、絵柄の統一感・前後の展開・キャラクターの生死からも
自由に解放され、笑い/ギャグのために無尽蔵のパワーを開放した作品だったと思う。
端的に言えば、あいまいみーは全てが面白さを表現するために存在しているのだ。

こうした理屈や理に囚われない作品の作り方は、
いまざきいつきさんが作画から演出までほぼ一人で手がけたからだろうし
そもそもの原作の面白さがあって、その原作をいまざきさんが咀嚼し加味したからであろう。



理屈を突き詰めた作品も面白いが、理屈を飛び越えた作品もまた面白い。
中盤以降は、ただただ毎週毎週楽しみで仕方がなかったが、終わってしまい寂しくもある。
今はただ、楽しく面白い時間を過ごせた事に感謝して、結びとしたい。
 
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[ 2013/03/31 08:56 ] あいまいみー | TB(0) | CM(1)

僕は友達が少ないNEXTで魅せる高品有桂さんの作画修正 

高品有桂さんの凛とした作画修正

今週で終わってしまった僕は友達が少ないNEXT。

はがない2期の見所の一つといえば
前期では衣装デザインだった高品有桂さんが
今シリーズから、総作画監督として加わったことだろう。
織田信奈の野望で大ブレイクした高品さんの絵の魅力は留まるところをしらない。

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最終話では理科の作画に対する修正がすごくよかった。
ぷにっとしたほっぺたのラインが、可愛らしい。
高品さんの修正が入ると、理科が凛とした美しさと艶を兼ね備えた存在のようにもみえる。

はがない2期は、理科の為にあったシリーズのようにも思えるが
最終話の美麗な理科は、小鷹に立ちはだかるラスボスとしての威厳を十二分に示し
シリーズのクライマックスに相応しい存在に仕上がっている。

1期の頃は、理科の良さがわからなかった。
でも2期では小鷹を一途に思いながらも、本音は隠しつつ、
一方では小鷹の本心を見抜きつつ、小鷹の為に動く理科の姿は、私の中ではヒロインだった。
そんな理科をビジュアル面で支えた、高品さんの修正がとても良かった。

もちろん、福圓さんの気合入った演技も、
理科というキャラを大きく支えている。

あおきえいさん、ほしかわたかふみさん、島津裕行さんの参加による
はがないワールドの拡張

そんなはがない2期も終わってしまったが、
2期ではほしかわたかふみさんやあおきえいさんといった
実力派の演出家さんも参加したのが、見ものだった。
また、いたるところでコンテを切りまくる島津裕行さんが
1話と最終話のコンテを切り、最初と最後で美少女アニメのあり方をきちんとキメてみせる。
一方で、監督の喜多幡徹さんはコンテを切らないというのも、珍しいなと思った。

高品さん、ほしかわさん、あおきさん、島津さんといった
前期では見られなかったスタッフが参加したことで
新たなアニメでのはがないワールドが構築できたと思う。

さて、3期があるかどうかは、わからないが、
もし続くのであれば面白いアニメになる事を期待したい。
 
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たまこまーけっとは日常が非日常を取り込む物語~京都アニメーションが目指すもの~ 

はじめに

みどりさんが可愛かった、たまこまーけっと最終回。
結論からいうと、最終回を見て思ったのは
たまこまーけっとは、日常が非日常を取り込んだ話である。

この日常とは、たまことたまこの関係者全て、うさぎ山商店街であり
非日常とは、つまりデラという存在そのものであるとする。
つまりたまこまーけっとは、たまこ達うさぎ山商店街が、デラを取り込む話だということだ。
この事の意味を、京都アニメーションの他作品も含めて考えてみたい。

うさぎ山商店街から出られないデラ

私が日常が非日常を取り込む話だと感じたのは、
デラがうさぎ山商店街を去ろうと人知れず立ち去っていくのに
結局、たまこ達の元へ戻ってしまい、物語が終わる展開だからだ。

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(花の匂いを嗅ぎそのまま眠り、ダンボール箱に包まれ、たまこの元へ戻るデラ。)

デラは外へ出ようと自ら望んだのにも関わらず、運命はたまことデラを引き離さない。
さらにダメ押しでたまこに「初詣に行こう」と言われ「おしまい」の文字。
初詣以降が2期等があって今後描かなければ、
現状、たまこまーけっとの物語は、デラがたまこの元に留まることを選択したわけである。

商店街から抜け出したメチャ王子と、チョイさん

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対照的にチョイさんが、商店街に馴染みながらも商店街に出られたのは
チョイ・モチマッヅィという、たまこの大好きなもちを否定する名前であること。
また褐色肌という、たまこやもちとは違う色だったことと見立てると
彼らは結局うさぎ山商店街とは別世界に生きる存在だったと見ると面白いのではないか。

そして色という視点で考えると、デラが白いのには意味がある。
それは白いからこそ、もち(白)やたまこ(白)うさぎ山商店街(白)と親和性があり、
商店街に取り込まれるという必然性があるという意味合いにも見立てられる。
デラは商店街から逃げられない。
 
京都アニメーションが志向する日常+α

話を少し変える。

「けいおん!」以降の京都アニメーションの作品には
日常を舞台とする内容に+αを志向する傾向があると見ている。

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「氷菓」では、折木君やえるの日常で起こる物事を推理という+αな切り口で語られる。
折木君の推理がえるに新しいものを見せるという意味では、それが非日常的であるともいえる。

次の「中二病でも恋がしたい」では、勇太の日常に中二病に染まる六花が現れる。
そして中二病とありきたりの日常の境界線が描かれる。
「中二恋」では中二病が+αに相当すると思う。

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そんな「氷菓」「中二病でも恋がしたい」という二つを踏まえて、
たまこまーけっとは、デラという人語を解し喋る非現実な鳥が現れる。
まさに非日常そのものともいえるキャラクターを出してきた。
「氷菓」でも「中二恋」の+αでも、こんなに非現実的な存在はいない。
デラは京都アニメーションなりの日常+αに関して、一歩踏み出した存在だと思うし、
たまこと共にこの作品の世界観を担うキャラクターだ。

非日常(デラ)を取り込む日常(たまこ・商店街)

そんなデラは上記で述べたように、
たまこ達とうさぎ山商店街に取り込まれ物語は終わる。
つまり、デラという非日常をたまことうさぎ山商店街の日常は受け入れたのだ。
むしろ、たまこが別れを寂しがるよう、なくてはならない存在なのだ。
それは、繰り返すが、デラがたまこに戻ってきてしまったオチでわかる。
デラも日常になった、うさぎ山商店街の一員になったのだ。

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(デラの走るシーンは今シリーズのクライマックス)

こうした非日常を取り込み、日常にしてしまう意味では
日常という存在の強固さと強さを感じさせた作品が、たまこまーけっとである。

まとめ

改めて、京都アニメーションが非日常的な存在を直接登場させて
日常を描く事の意味を問い直した作品が、たまこまーけっとであったことがわかる。
押井守さんが自分の作品を「犬の視点で人間を描く」みたいな話をたまにするが
もしかするとたまこまーけっとは鳥の視点で人間を日常を描いた作品なのかもしれない。

そんなたまこまーけっとも終わり、
京都アニメーションは改めて日常の意義を本作を問いかけたわけだが、
これを踏まえて、

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「中二恋」の2期が、どういう日常+αを問題提起してくるのかが興味深い。
 
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[ 2013/03/28 20:00 ] たまこまーけっと | TB(48) | CM(0)

キルミーベイベーはなぜ面白いのかを考える 

はじめに

ニコニコ動画でキルミーベイベーの全話配信をやっている。
改めて見返してみて、やはり面白い。それも抜群に面白い。
その理由をキルミーベイベーを見ながら考えてみたいと思う。

キルミーベイベー的時間体験

まず、キルミーベイベー的としかいえないような時間感覚が挙げられると思う。

それは弛緩しきった時間感覚ともいえるし、
他のアニメと比べて時間の流れが遅く感じてしまうともいえるし、
とにかく、他のアニメで感じる時間感覚とは明らかに別物だ。
そして、この時間感覚は1クールアニメの中では貴重のように感じる。

それは1クールアニメは、物語を見せる/やれる内容に尺的な限りがあるため
物語でも画面の見せ方でも詰めて見せる傾向が強いように感じる。
端的にいえば、テキパキしていてきっちりしているのだ。

一方でキルミーベイベーは、1クールアニメ的なテキパキと詰めこんで見せるのではなく、
一つのネタの密度を維持しながら、でもペース配分としてはゆっくり。
キャラクターのしゃべりもゆっくりだ。そしてシュールさも多分にある。
ゆっくりかつシュールな感じがキルミーベイベー独特の時間感覚を生み出している。

OP・ED曲の存在も重要だ。
本編に比べてアップテンポな曲調とダイナミックなアクションで見せるOPは、
本編の時間感覚とは、違っている。
このOPは畳み掛ける感じで始まり、本編ではゆったりな感じで進行する。
そしてEDでは、本編よりも少しペースを上げた曲調で終わる。

こうした、OPやEDの曲のテンポを含めて
トータルで緩急をつけて(もちろん声優さんの演技やBGMも含めて)
時間感覚を作り上げているのが、キルミーベイベーの時間なのである。

その中で一番時間のズレを作っているキャラは、
とにかく喋りが一番遅いあぎりさんである。

見やすい絵作り

この作品の画面は見やすい。必要以上に画面の密度を上げない。
例えば背景美術の精度を実写のように極度に上げる手法は取らず、
リアルさは損なわない程度に簡略化した線量で美術を描き、イメージBGを多用する。

キャラクターの動きもゆったりとしている。速い動きは少ない。
視覚に追いつきやすい動かし方。
パン、パン、パンと畳み掛けるようなカット割りもあんまりない。

そんなキルミーベイベーは作品の画作りにおいて
画面の情報量をきちんと計算して作られ、
この画作りが作品のほんわか感を生み出しているのだ。
作画監督の長谷川眞也さんや安藤正浩さんが、作画面で支えているのも大きい。

山川吉樹さんの存在

監督の山川吉樹さんが全13回中で9回、コンテを切っているのは大きいと思う。
監督が率先して、作品のカラーを作り上げているのがわかる。

同じJ.C.STAFFのぽてまよが、監督の池端隆史さんが全話のコンテを切ったのを見ると
J.Cはギャグ系の作品を監督自らのコンテでコントロールするという方向があるのかも。

やすなとソーニャが可愛い、そして二人の関係性が素敵

デザイン的にも二人は私の中では可愛い。
茶色髪のやすなと金髪(黄色)のソーニャの対比もいい。
そんな二人はお互いの事が好きで好きで仕方がないようにみえるのも好きだ。

ボケ(やすな)とツッコミ(ソーニャ)のバランスも取れていて、
二人の役割がたまに変わるのも面白く、そこがまた可愛い。
赤崎千夏さんと田村睦心さんの掛け合いも、
回をこなすに連れて、上手くなっていく過程も聴いていて面白い。
特に赤崎さんの後半の暴走は見ていて楽しい。

まとめ

簡単にまとめてみたが、
クセになる時間感覚を味わえるのが、この作品の醍醐味だろう。
何回もみるとクセになる、中毒性が高い作品なのである。
この中毒性は山川監督以下、スタッフワークによって
高度なレベルでコントロールされた、ゆるシュールな世界なのだ。

そして2013年の3月という今見返すと、
今ではてーきゅうのアーススターや、
あいまいみーの竹書房などのギャグマンガのショートアニメが多く出回っているが
ちょっと前の2012年では、30分アニメでギャグに挑戦した作品が
あったなぁということを思い知らされる。

何にしてもキルミーベイベーは、
以上の理由から他のアニメでは味わいにくい感覚を味わえる意味で
唯一無二といえる印象を受けるアニメだ。
 
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[ 2013/03/27 22:30 ] キルミーベイベー | TB(0) | CM(1)

創業から継承への物語~けいおん! highschool~ 

けいおん! highschool を読む。
「あれっ。意外に面白かった。」というのが、率直な感想だ。
 


唯も澪も律も紬も、何より和さんが出てこない。
可愛く強烈でもあった彼女たちがいなくなった後の軽音部。
けいおん!という作品が、キャラクターの力で引っ張ってきたように私には感じたので、
彼女達がいない展開/内容で、大丈夫なのかなぁと思った。

でも面白かった。それは自分の体験と重ねることができたから。
簡単にいえば、私も学生時代にサークル活動をしていて
梓達のように先輩達を見送り、そしてhighschoolで新登場した
直やスミーレといった後輩達を迎える展開に対しての梓達の姿勢に共感できたから。

後輩ができて先輩になると、行動や考えが変わる人もいる。
梓が唯のように後輩にスキンシップをしたり、
楽しく振舞おうとする姿勢には、梓が先輩として振舞おうとする姿勢が見えた。
梓は先輩になって変わったのだ。

私自身でも、先輩になって後輩になった時に、
後輩への接し方など色々考えるようになっていたのを
highschoolを読んでいて思い出した。
こうした先輩として振舞う彼女達の行動に「こう振舞うよな」と思う私がいた。


けいおん!が、軽音部の創業の物語であるなら、
highschoolは、継承の物語のように思える。
唯達から梓達へ渡されたバトンは、重いのかもしれないが、
自分達のやり方「わかばガールズ」で進めばいい。
この自分達のやり方、継承方法を見つける物語がhighschoolだったように思える。
そして継承を手助けするのは、さわ子先生。
「わかばガールズ」と現軽音部を的確に表現した彼女の存在は、やはり大きい。

そして梓達は、直やスミーレに次のバトンを渡していくのだろう。
人の移り変わりはあるのかもしれないが、
少女たちの楽しく生き、音楽に打ち込む光景には変わりがない。
そんな予感を抱かせるhighschool。
機会があれば本編のようにアニメ化してほしい題材である。
梓達のちょっと変わった姿が見られるのだから。
 
そしてかきふらいさんの絵も好きになれたのも良かった。
 
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[ 2013/03/26 20:11 ] けいおん! | TB(0) | CM(1)

俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる12話の、小物をキャラの心情に見立てる演出解説 

はじめに

今回の俺修羅は、出合小都美さんの絵コンテ・演出が面白かった。
なぜ面白かったのかといえば、小物の使い方。
当記事では、この小物が意味する/見立てるキャラクターの心情描写について語る。

小物から描き出されるキャラの心情

今回の小物には意味がある事がわかったのは、以下のショット。

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後半、鋭太は夏川真那と出会い、真耶は真涼について話す。そして、
「真涼は夏川家の宝石って呼ばれていたの、宝石つまりアクセサリー。パパが社交界で自慢する道具・・・」
と言いながら、蹴った小石を手につかみ、太陽の下に晒す。
小石が光り輝く宝石・アクセサリーになった瞬間であり、
つまりこの小石は真涼であることの暗喩なのだ。

この描写でわかったのだが、今回は真涼が宝石/アクセサリーだという事を示すものであり、
ここまでに至る布石をきちんと小物を使って描写してきた回なのだ。

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話を前から見てみよう。

まず最初の海辺での海水浴のシーン。愛衣がハート型の貝殻を拾い、鋭太に見せる。
愛衣なりの愛のアプローチではあったが、
鋭太はアジフライだと言い、彼女の気持ちを受け取らない。
つまりこの貝殻はハート=宝石にはなれず、アジフライになってしまったことで、
愛衣と鋭太の想いの行き違いを描いている。
まず、ここで貝殻はアクセサリー・宝石だという布石を立てていることがわかる。


次に宿泊先に戻っての真涼と愛衣の料理シーン。

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告白されるのを回避するために鋭太と付き合うのが目的だとしたら許せないと
一歩間違うとガチな修羅場になりかねないような言葉を吐く。
愛衣が鋭太と真涼の関係のフェイク性を指摘し暴露した瞬間だ。

ここで真涼は玉ねぎの皮を剥きすぎたと言い、愛衣をごまかし場は収束する。
ただ、この玉ねぎも形を見る限り、小物であると同時に、
皮を剥かれた玉ねぎは、真涼の心も剥かれ丸裸にされた事を暗喩しているのだ。
ここで、貝殻→玉ねぎという、描写の繋ぎを見せている。

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そして今回のクライマックスの一つ。
千和達が鋭太や真涼に「乙」型のアクセサリーを渡す。
3人の心の暖まる贈り物に対して、真涼は心震えたようだ。

料理シーンも含め、丸裸にされつつある真涼。
そして鋭太とのフェイクな関係性を維持させるためにキスをする事を思いついたが、
こうした作戦も3人の暖かさに触れて観念したようだ。
ただ、真涼にとっては、3人の眩しさに照らされたかのように
自身の心の醜さをも感じ取ってしまったようだ。

しかし、このアクセサリーは5人の繋がりを表すものでもある。
鋭太との関係はフェイクかもしれないが、5人の絆は本当なのだ。

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そして鋭太と真耶のシーンに戻ると、
貝殻→玉ねぎの破片→「乙」型アクセサリー→小石と、
物語の要所要所を小物/アクセサリーでつないでいることがわかる。上手い。

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そして真耶は持っていた小石を蹴り、違う小石と当たった描写を考えると、
この二つの小石は真涼と真耶を表していることがわかり、
父親の期待に応えアクセサリーになれる真涼と
父親に期待されずアクセサリーになれなかった真耶を意味していることがわかる。

まとめ

以上のように、今回は小物(アクセサリー的なもの)を用いて、
各キャラの心情を見立て、キャラの心を揺さぶりをかけるような描写を行い続けてきた。

繰り返すが
真涼は「乙」型のアクセサリーで3人の真心の本物さと自身の醜さ(フェイクさ)を感じ、
真耶や小石で、期待された姉(真涼)と期待されない自分を照らし合わせる。
真鈴と真耶が違う小物を通じて対照的に繋がって行くのも、描写として面白い。
それは、出来の悪い妹から見れば、出来の良い姉の方は、
上手に振る舞えてしまえるためにフェイクになるという指摘をしているかのようだ。

でも、真涼も自分のフェイク性の欺瞞も感じ、一歩飛び越えようとしている。
だから部屋で悩んでいるのだろうし、関係を終わりにする覚悟もあるようだ。
そんな真涼に対して、鋭太も色々思うところはあるようだ。
来週で一つのドラマの区切りが着くようであり、楽しみである。
ただこの流れで行くと、千和ルートも真涼ルートもありえる。
 
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たまこまーけっと11話にみる、白と黒の関係性。 

今回、気になって仕方がなかったのは、
最後の最後で登場したメチャ・モチマッヅィ王子の格好。

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華やかな色どりなうさぎ山商店街に突如現れた
全身黒色の服に身にまとったその姿。
感情移入、他者の感情をはねのけてしまう黒い格好は、
メチャ王子の異物性を極度に強調したものに見えた。

またたまこまーけっとで、
こんな真っ黒なものが画面に出てきたのは、初めてではないだろうか。
まさに、うさぎ山商店街にやって来た黒船襲来といったところか。

今までのたまこまーけっとを振り返ると、建物の色味やキャラの格好を全てを含めて
鮮やかな明度の高い色彩で描かれたビジュアルを積み上げてきた。
しかし11話の最後で、良いイメージが先行して描かれていたような王子が
こうした姿をまとったのにはインパクトがあり、それゆえにこの黒には意味があるのだと思う。

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この黒には、予兆があった。
今回、チョイがデラの通信機能を使う際は部屋を暗いわけで、
暗い、つまり黒に近い空間が真っ黒を出す前フリとして示されていた。
また、今までも王子と通信する際のシーンは暗くされた部屋で行われていた。

名前もメチャ・モチマッヅイなわけで、たまこの餅屋とは正反対。

一方で、たまこ達は白を基調とする。もちも白いし、デラも白い。

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仮説なのだが、白とは光であり、光とは楽しさや明るさを意味するものなのかもしれない。
そんな白いもちやデラは、史織やあんこを救ってきた経緯もある。
そう考えると、白と対照的な黒は苦しさや、暗さを表すものなのかもしれない。

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(ちなみに糸電話は白い、そして夜は暗い=黒い)

黒が苦しみとするなら、今回の話がたまこが苦しむという話という意味で合致する。
つまり王子=黒がやってくる/お妃になるという展開に
白=たまこが苦しむというのはある種の必然なのかもしれない。

王子は、うさぎ山商店街に始めて現れた敵なのか?
白は黒に染まってしまうのか?
そんな予感を持ちながら、次回への引きとなった。
来週で最終回。どんな幕引きを迎えるのだろうか。期待したい。
 
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[ 2013/03/21 22:22 ] たまこまーけっと | TB(46) | CM(0)

少女革命ウテナ原画展レポート  

西武池袋で3/20から開催された
「少女革命ウテナ原画展~輪るピングドラムと幾原邦彦の世界」に行ってきた。

http://www.starchild.co.jp/special/utena/gengaten.html(公式ブログ)

この企画の趣旨、概要

少女革命ウテナのBD-BOX発売記念に合わせての販促イベントの一環。
入場料は大人500円。大学生・高校生300円。中学生以下無料。今月25日までの開催。

チケットはこちら

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会場の様子

輪るピングドラムと縁深い池袋。この池袋の西武で開催され、
高倉冠葉と昌馬の誕生日である3/20に開催初日を迎えるこの原画展。
何もかも狙って、展開している印象を受ける。

開催初日は祝日とあって、来場者も多く会場は盛況。
展示物に多くに人が釘付けになっている感じが伝わってきた。
昼の12時過ぎに会場に入ったのだが、すでに物販列が長蛇の列になっていて驚き。
事前に見たツイッターで物販購入は1時間待ちという情報も出ていたが、そんな感じに見えた。
会場から出たときには、物販だけではなく、入場する所にも若干列ができていた。

全体的な客層として男性3割、女性7割ぐらいの印象。
見た感じ、思春期にウテナに出会い、今に至る年頃の人が多いように見えたし、若い人もいた。
ウテナ人気の根強さを感じるとともに、ピンドラファンの多さも感じられた。

会場の展示物の紹介

さて、会場に展示されていたものを紹介。
まず少女革命ウテナから。

・初期企画案当時のキャラデザイン(ウテナkiss時代のもの)
・キャラクター原案のさいとうちほさんのカラーイラスト
・美術設定(ビーパパスのメンバーと長濱博史さんが手がけたもの)
・OP、EDのレイアウト、原画、セル画
・各回のレイアウト、原画、修正、セル画
 (1話、4話、7話、12話、14話、20話、23話、26話、29話、31話、35話、38話、39話)
・1話の絵コンテ(担当:幾原邦彦さん)とグッズ
・版権イラスト(各巻のLD、DVDジャケット・ゲーム・雑誌)
・劇場版ウテナの背景美術(動く背景)、レイアウト・原画・セル画・版権イラスト


続いて輪るピングドラム関係の展示では

・星野リリィさんnよるキャラクター原案
・美術設定
・OP、EDのレイアウト・原画
・西位輝実さん総作監修正
・クリスタルワールドのプリンセス・オブ・ザ・クリスタルの以下のシーンの原画

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・本編の原画
(3話、6話、11話、12話、14話、15話、18話、21話、22話、23話、24話)

以上である。

感想・印象に残ったこと

まず印象に残ったのは、ウテナは1997年の作品で、ピングドラムは2011年の作品であること。
つまりウテナはデジタル制作以前のアニメ、セルアニメであり、
ピングドラムは、デジタル制作が普及した以降のアニメなのである。
この事は、ウテナにはセル画があり、ピングドラムにはセル画がない事で強く感じた。

こうしたセル(ウテナ)とデジタル制作(ピングドラム)の違いが
原画の描き方などにも影響を与えているのだなぁと感じた。

他に面白かった展示物は、1話の幾原さんの絵コンテ。
1話のコンテは全部展示されていたわけではなく、
ウテナが決闘広場に行き、ゲートが開いて絶対運命黙示録が流れ、
階段を昇る有名なシーンがメイン展示だったが
あの当時の幾原さんのコンテは、こう書いていたのかがわかってよかった。

このウテナのコンテと、オトナアニメVol.22で掲載された
ピングドラムの幾原さんのコンテを見比べてみても面白そうだ。

美術設定では、七実のカウベルのデザインやカレーの容器のデザインが展示されていた。
こうしたものもデザインしていたのかと、ウテナという作品のこだわりが強く伝わってきた。
また美術では、動く鳳学園の建物の実物を見られてよかった。
これはぜひ実物を見に行った方がいい、オススメものである。

他には展示されていたレイアウトの中に、
「○○さんよろしく」みたいなコメントが入っているを見られるのが面白かった。
こうしたコメントがある方が、スタッフ間のやり取りが垣間見えて面白い。

物販について

この原画展の図版やクリアーファイル、Tシャツなどが取り揃っていた。
またメインのBD-BOXや幾原さんが関わった著作(ノケモノと花嫁とか)も多数揃えていた。
何よりシェルブリッドの文庫が置いてあったのには驚いた。
なお設定資料集は、到着時には完売していた模様。残念。

また販売用の版画もあった。高額でありながら、何点か既に売約されていた。
確かにあのサイズを家に飾れるのであれば、嬉しいものがある。

まとめ

結局、原画展の図版を買うのに数十分の時間を費やした。
この数十分の間に図版を読めたから、良しとしたいところだ。

行ってみて、改めて少女革命ウテナの人気の高さを思い知った感じである。
輪るピングドラムの後押しもあり、こうした企画が盛況である事に
見終えたあと、感慨にふけってしまった。
今のアニメ好きの方々は、イベント参加志向が根付きつつあるのは間違いないと思うし、
好きな作品のこういう企画は率直に言って嬉しい。
 
そして今回展示された原画やレイアウト、美術設定は、
幾原さんの言うように作品の素材でしかない。
ただ、こうしたものから作品への想いを馳せるのは、視聴者的に面白い行為だと思うし、
自分なりの作品への答えを見つけるために有用になるものなのかもしれない。

最後に。原画展のお題には「幾原邦彦の世界」とあり、
確かにウテナとピングドラムは幾原さんが始まりであるが、
幾原さんを起点にスタッフ達のアイディアと情熱が作品に結実し、
スタッフワークによって両作ともに傑作になった事を、
この原画展を通して感じてもらいたいと思った。
  
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[ 2013/03/20 20:41 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

さくら荘のペットな彼女の校長とガンダムXのブラッドマン卿が完全に一致した件 

さくら荘のペットな彼女の23話。面白かった。
卒業式でさくら荘の存続を訴える、美咲先輩や空太の想いが
生徒全員を熱狂へ変える展開が面白かった。

さて、今回のポイントは校長。この校長、どこかで見たことがあるかと思えば、

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さくら荘のペットな彼女(2012年10月~)より、水明芸術大学附属高校の校長。

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機動新世紀ガンダムX(1996年4月~1996年12月)より、フィクス・ブラッドマン。
新連邦政府の新連邦軍総司令官。

どちらも組織の長である点やルックスを含め、

完全に一致!
 
おそらく、校長はブラッドマンに転生したものだと思われる。
こういう発見があるから、アニメは面白い!
 
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逆襲のシャアのアムロの「あんたちょっとセコイ」決定的瞬間。そしてシャア。 

はじめに

逆襲のシャアでアムロがクエスに
「アムロ。あんた、ちょっとセコイよ」と言われるシーンがある。
逆シャアの名シーンであり、名セリフの一つだろう。
セコイと言われる主人公はそうもいない。

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amurosekoi1000.jpg

これは、クエスがシャアとアムロの二人の因縁を知っていて
二人の対決が不意打ちじみた展開で、かつMS戦ではなく、銃で決着をつけようとし
堂々としていないアムロに対して、セコイと感じたのだろう。
その後、クエスはアムロの銃を奪い、セコイ発言をしてシャアの元に走る。

そして逆襲のシャアにはアムロがセコイシーンが他にもある。
そんなアムロのセコイ決定的瞬間を紹介する。
またそんなアムロに対して、シャアはどうなのかも見てみたい。

アムロがセコイ決定的瞬間

シャアが乗るサザビーとの対決で、ビームライフルを失ったアムロ。

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その後アムロは、出くわしたギラドーガをビームサーベルで斬りつけ、
隙を見て、ギラドーガからビームライフルをちゃっかり奪っている。

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「アムロ。あんたちょっとセコイよ。」

ビームライフルを持っていなければ、敵から奪うメソッド。
アムロのセコさを映し出した決定的瞬間である。

このギラドーガから銃を奪うことについては、
江戸の敵を長崎で討つに近い行為なのかもしれない。
つまり、クエスに取られた銃の仕返しとして、ギラドーガから奪い返しているのかもしれない。

そしてこの後、アムロはアクシズ内部の爆破工作に向かい、νガンダムを降りるのだが
再搭乗する際に、νガンダムの右手に持っているビームライフルは

amurosekoi000.jpg

ちゃんとギラドーガが持っていたビームライフルが握られている。

しかし、アムロはそのビームライフルをサザビーにお見舞いしたのだが、

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全く効かず。これがMSの機体の差か。
世の中、ギラドーガのビームライフルでサザビーを倒せるほど甘くはなかった。
「わかるか、北久保」(北久保さんとは関係ありません) 。

ちなみにνガンダムが敵機のギラドーガのライフルを問題なく使えた理由としては
敵味方の違いはあれど、両機体ともに同じアナハイム社製だからだろう。
規格的にマッチしていたと思われる。

セコイ、アムロ。対してシャアは?

アムロがセコイなら終生のライバルのシャアはというと・・・

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ジェガン3機に対して、メガ粒子砲を気前よく発射し撃破。

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駄々っ子ビームサーベル二刀流で、サザビーのエネルギー切れの流れを作ってしまい、

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アムロのバルカン攻撃を防ぐために、また気前よくメガ粒子砲を放ち、

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「パワーダウンだと」とカッコイイ池田秀一声で、
エネルギーの無駄遣い・大盤振る舞いな自身の戦い方の不味さを隠すシャア。

∀ガンダムのメリーベルに
「かっこつけるだけで戦い方の下手なシャア=アズナブル。
私が盛り上げてあげるよ」と言われても仕方がない姿である。

まとめ

ギラドーガのビームライフルを奪うセコイアムロ。
対して、メガ粒子砲やビームサーベルなど、ビーム系の武器の大盤振る舞いをして
アムロよりも早くパワーダウンを招いてしまうシャア。

これは、シャア相手でも冷静だったアムロと
アムロと戦いたくて仕方がなかったシャアの違いだったのだろう。
端的にいえば、シャアは後先を殆ど考えていない戦い方だ。
 
シャアはアムロに「 愚民共にその才能を利用されている者がいうことか」と批判するが
シャアの戦い方はエネルギーの無駄遣いである。

この差は、大人になったアムロと、大人になりきれなかったシャアという言い方もできる。
こうした戦い方でキャラクターの性格を説明台詞だけではなく、
行動でサラリと見せてくれるのが、逆襲のシャアという作品の魅力の一つなのである。
 
【関連記事】逆襲のシャアにおける、ミライの重要性についての考察。
 
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[ 2013/03/18 20:00 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(11)

リトルバスターズ! 23話と「ONE 〜輝く季節へ〜」 に共通するもの 

リトバス23話。すごく面白かった。
監督の山川吉樹さんのコンテは感情を高ぶらせてくれる。
鮮烈な画面を見せてくれる。

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世界が繋がっていく瞬間を見せていたのが面白かった。
非日常な戦地状態のクドの故郷と日常の理樹達がいる学校。
非日常と日常の二つの落差を見せることで、クドの過酷な試練が描かれた。
爆破は起き、銃弾の音は聞こえ、前までいた学校の平和性とは全く違う世界。
今までのリトバス世界では、ありえない光景に愕然とした。

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そんなクドがいる悲惨な場所のことを理樹達も理解する。
でも自分たちは何もできない。ただ理樹達ができるのは願うことのみ。
その理樹達の願いが、理樹が持っていたクドのお母さんの片身をクドの前へ現れる。

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物理的にも隔たりのある世界が一瞬に繋がる瞬間。
奇跡といえば、奇跡なのだろうが、
いや世界が理樹達とクドの間で繋がっているからこそ、起こる必然ともいうべきか。
この辺りは原作未プレイなので、なんともいえないが、
何かしらこの描写に対する解答や裏付けはあるのだろう。

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ただこの奇跡ともいえる必然によってクドは救われ、
みんなの後押しで前に一歩進むことができた。
外の世界へ旅立っていったクドが、学校へ戻ってきたのだ。
野球という日常の中に、クドが再び戻ってくる以下のショットには感極まるものがあった。

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key作品の前身でもある麻枝准さんの企画のADVゲーム「ONE 〜輝く季節へ〜」は、
過去の妹を失ったトラウマが原因で、永遠の世界に行ってしまった主人公が
現実世界にいた少女との触れ合いがあった事によって、現実世界に帰還できる話だ。

今回のクドの旅立ちと、旅立ち後の困難、そして学校への帰還は、
このONEにあった、違う世界(クドの故郷・戦地)へ行ってしまいつつも、
他者との触れ合いがあった事で、元の世界に帰還できるモチーフを彷彿とさせた。
麻枝さんは、旅立っていった少女が戻ってくる話も好きなのだろう。
(逆にAIRの観鈴は旅立ってしまったわけだが)

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他者との触れ合い/思い出/願いが人を変え、後押しし、元いた世界に帰還する。
リトルバスターズにおけるクドの物語は、
麻枝准さんが「ONE」以降も描き続けた
人の触れ合いの意味を再確認できる内容だったといえるだろう。
世界は自分と他者で成り立っているものだということを。
 
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[ 2013/03/17 10:00 ] リトルバスターズ! | TB(34) | CM(0)

アニメの制作工程を家作りに例える  

はじめに

アニメの制作工程を家作りに例えると、
わかりやすのでは思ったのでまとめてみる。

アニメ作りと家作り、各工程の職種を照らし合わせる。

①企画・脚本・設定(プリプロダクション)=営業(設計相談)

まずアニメは企画(企画書)を元にスタッフの編成と、
脚本・設定に必要な各種設定などをまとめる。

これを家作りに置き換えると、
お客の要望を元に、予算・場所・間取りを決めて、
家づくりの設計プランをまとめる、職種的にいえば営業的な役割に属すると思う。

ざっくり、営業(家作り)=企画・脚本・設定(アニメ作り)に置き換えられそう。

②コンテマン(絵コンテ)=建築士(設計図)

設定・脚本が決まったら、アニメ作りの設計図である絵コンテ作りに工程が進む。

これを家作りを置き換えるなら、
設計プランを元に家作りの基本となる設計図に取り掛かる作業になる。

絵コンテ=設計図 コンテマン=建築士、はわかりやすく置き換えられる。

③演出=現場監督

絵コンテを元に、原画を含め各部門と様々なやり取りをする演出。
設計図を元に現場で家作りをして、大工や様々な業者とやり取りする現場監督。

コンテマンが演出を兼任することもあるし、
設計図を描く建築士が現場監督が兼任することもある。

演出=現場監督なのではと思う。

④作画監督=大工の親方、原画マン・動画マン=大工

絵コンテ、作画打ち合わせを元に原画マンが原画を描き、動画マンが動画を描く。
設計図を元に、柱を組み、カンナを削り、釘を打ち、家を作る大工たち。

各回の原画を修正する作画監督は、大工の親方に相当するといえるし、
原画を描く原画マンは、大工に相当すると思う。

⑤美術・仕上げ=内装業者(インテリア)・外溝業者(エクステリア)

美術設定を元に、アニメの背景画を描く美術を家作りに置き換えると
照明・家具・壁・天井の仕上げをする内装
生活する建物の外にある構造物を手がける外溝に置き換えられると思う。

美術=内装屋・外溝業者に当てはめやすい。
一方で、家作りを仕上げていく作業にも思えるので、
アニメの原画・動画の色を塗る、仕上げの仕事の範疇に含まれるのかもしれない。

⑥監督=社長・現場の責任者

最終的にアニメの制作に責任を負う監督は、
家づくりにおいては、工事を請け負う社長や工事の最高責任者に該当すると思う。

まとめ

ものすごくざっくりにまとめた。
ちなみにアニメの撮影は当てはめることができなかった。
上手く当てはめられるアイディアがあったら、教えてほしい。

1本のアニメを作るにも、1つの家を作るのにも、大きなお金が動き
様々な工程があり、様々な人が関わる意味でも、似ているのではと思った。
というより、もの作りの本質は、家づくりでもアニメでも変わらないのかもしれない。
  
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[ 2013/03/17 02:41 ] ニュース | TB(0) | CM(2)

さくら荘のペットな彼女22話(感想) 

急ぐがあまり切符を買わずに
駅内に突入する空太を見てハラハラしてしまったよ。
 
空気を読まないように、キャラクターが動くことで
青春の痛さを表現しているようにも思える。
 
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たまこまーけっと10話における、みどりと史織の逆転する関係性と、みどりの脚描写の考察 

たまこまーけっと10話が良かった。
みどり好きな私にとっては、幸せな時間を過ごすことができた。
この作品にけいおんを求めていた人は、こういう話展開を望んでいたのではとふと思った。

今回、一番良かったのが、トイレのシーン。

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(10話)

踏ん切りがつかないみどりが、トイレで一歩踏み越えようと頑張ろうとしている姿は

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(3話)

以上の3話での史織さんが、たまこに自分の気持ちを打ち明ける描写と見事に対比している。
光の加減は違えど、カメラの置き方なども含め、レイアウトもほぼ同様にしている。

さらに、こうした10話のみどり、もしくは3話の史織の姿を見てしまうのが

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(10話)

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(3話)

以上のように、史織(10話)でありみどり(3話)なのだ。
これも、キャラを入れ替えてはいるが、レイアウトが同じ。
つまり3話と10話で、みどりと史織の両者の関係が逆転しているのだ。
この二人の立ち位置が、時が立ったことで逆転しているのはとても面白いと思う。

この後、10話では史織さんがたまこ含めたみんなに話して、みどりを救っていくわけだが、
3話でもみどりがキッカケで史織さんとの仲が良くなっていった。

つまり今回は物語が、時間が経てば、人が他人と同じような状況になるという話でもあった。
そして史織さんもみどりも、たまこによって救われるのまでも同じなのだ。

こうして、3話→10話と回をまたがっていても、
キャラクターの立ち位置を反転させることで、シリーズの連続性を感じさせる描写。
こうした繋がりを感じさせる演出がテレビシリーズの面白さの一つではないだろうか。

ちなみに3話、10話の絵コンテ・演出ともに小川太一さん。
小川さんのこの演出は狙っていたとしか思えない。
そんな小川さんは、トイレ(鏡)を自分の気持ちを整理する場所として使っているようだ。


また次に良かったのが、みどりの鼻水。

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鼻水まで出させたのは、中々突っ込んだ描写ではないかなと思った。
人はよほどの感情が極まっていないと、鼻水を出さないと思うので。
鼻水を出す描写自体が基本的には好き。

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このあと、たまこがみどりの顔をさわり、包み込む描写も良かった。
9話でも、他のキャラが顔をさわって親近感を描写するシーンがあったが、
こうした身体的接触があると、見ている側は素直に気持ちいいなぁと感じる。


そして今回は脚を見せる描写がとても多かった。

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バトン部みんなの楽しげな空間を演出する脚。

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みどりの困りつつある感じを徐々に表している脚。

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脚を上げてみたはいいものの、良いアイディアは浮かばず・・・
(ここはお腹が露出しているのも素晴らしい)

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喫茶店に入っての、マスターの言葉に真剣に接することを現す脚。

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そして、イベントが終わったあとにも脚を見せる。

以上のように、要所要所でみどりの感情を表現するために脚を使う描写が多かった。
監督の山田尚子さんが脚で感情表現を表すことが得意かつ好きなようなので
今回の絵コンテの小川さんが山田さんの思うところを上手く拾ってきたのかもしれない。

そんな、女性の脚は感情を見せるのに魅力的なものだと感じた。
みどりの頭の先から、脚の先まで存分に楽しませてもらった10話だった。
 
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[ 2013/03/14 07:26 ] たまこまーけっと | TB(57) | CM(0)

アニメ監督の特徴をスパロボの地形適応で表してみた。 

明日スーパーロボット大戦UXが3DSで出るので、
アニメの監督をスパロボのパイロットに見立てて、
作品の傾向から地形適応を当てはめることはできないだろうかと思いついた。

以下、アニメの監督の地形適応。
基本の空・陸・海・宇宙の他に、彼らの得意な地形を一つ盛り込んだ。

各アニメの監督の地形適応

宮崎駿   空:S 陸:A 海:A 宇宙:C 少女:S 

高畑勲   空:C 陸:S 海:B 宇宙:C 農村:S

押井守   空:A 陸:A 海:A 宇宙:B 都市:S

富野由悠季 空:A 陸:A 海:A 宇宙:S バイストンウェル:S

高橋良輔  空:B 陸:S 海:C 宇宙:B 荒野:S

庵野秀明  空:A 陸:A 海:A 宇宙:A 第三新東京市:S

幾原邦彦  空:A 陸:A 海:B 宇宙:A 世界の果て:S

新海誠   空:S 陸:B 海:B 宇宙:A 信濃:S

出崎統   空:A 陸:S 海:S 宇宙:B 

コメント

宮崎さんは、ラピュタ・ナウシカ・魔女宅・紅の豚などがあるから空はSだと思う。
最近はポニョもあるので、海はA。少女は間違いなくS。

高畑さんは、おもひでぽろぽろのインパクトが強く、農村がS。
基本、地に足付いた人間達の話を描いているように見えるので、陸をSとした。

押井さんは、パトレイバーやイノセンスで都市論をやっていたので都市をSとした。
スカイクロラで空、攻殻機動隊の素子のダイビングで海をやっていたので、それぞれAとした。

富野由悠季さんは、宇宙世紀とバイストンウェルの生みの親なのでSとした。
また海のトリトンがあるので、海はAとした。空と陸も各作品で描いているのでAとした。

高橋良輔さんは、ダグラム・ボトムズで陸地戦を描いたので、陸と荒野をSとした。

庵野秀明さんは、トップをねらえで宇宙をA、エヴァで空・陸・海をAとした。
あと第三新東京市はネルフがあるのでSとした。

幾原邦彦さんは、ウテナで空と陸をA。セーラームーンR劇場版で宇宙をAとした。
また世界の果てはSとした。

新海誠さんは、空の描写が凄いのでS。ほしのこえで、宇宙をAとした。
また長野県出身なので信濃をSとした。

まとめ

まず、みなさんの意見をお聞きしたい。
上記で挙げた監督は○○という作品があるから
Sだ、Aだ、いやBだというような具合で。
  
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[ 2013/03/13 21:11 ] ニュース | TB(0) | CM(1)

今期のアニメのタイトルをオンドゥル語に変換してみる 

今期アニメのタイトルをオンドゥル語に変換してみた。
ちなみにオンドゥル語は、仮面ライダー剣での主人公の独特の滑舌を元にして
一部の視聴者によって考え出されたネットスラングな空耳ネタのことである。

詳細はこちら
使ったコンバータはこちら

正式なタイトル→オンドゥル語変換したタイトル

僕の妹は「大阪おかん」→ボグドイボルドゥヴァ「オオザァカオカン」

ぷちます!-プチ・アイドルマスター-→プディバズ!-プディ・ア゙イドドゥバズダー-

まんがーる!→バンガードゥ!

ヤマノススメ→ャバドズズベ

あいまいみー→ア゙イバイヴィー

キューティクル探偵因幡→クューディグドゥダンデイイナバ

まおゆう魔王勇者→バオユルバオルユルシャ

みなみけ ただいま→ヴィナヴィケダダイバ

俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる→オリドカドジョドゥオザァナナジヴィガシュラバズギドゥ

八犬伝―東方八犬異聞― →ヴァッケンディン―ドゥルボルヴァディイズイムン―

閃乱カグラ→センランカグラ

D.C.III→ダカーポズディー

AKB0048 next stage→エーケービーダムドゥヴォーディーエイドゥベグズドゥズデージ

ラブライブ!→ラムライム!

石田とあさくら→イシダドゥア゙ザァグラ

幕末義人伝 浪漫→バグバヅギジンディンドルバン

THE UNLIMITED 兵部京介→ザ ア゙ンディヴィデッド ビィョルムクョルズケ

AMNESIA→ア゙ヴベシア゙

LINE OFFLINE ~サラリーマン~→ライン オヴライン ~ザァラディーバン~

戦勇。→センイザァヴィ。

地獄ようちえん→ジゴグヨルディエン

生徒会の一存 Lv.2→セイドゥカイドイディゾン リベドゥディ

GJ部→グッジョム

たまこまーけっと→ダバコバーケッドゥ

gdgd妖精s→グダグダヴェア゙ディーズ

ささみさん@がんばらない→ザァザァヴィザァンア゙ッドゥガンバラナイ

僕は友達が少ない NEXT→ボグヴァドゥボダディガズグナイベグズドゥ

琴浦さん→コドゥルラザァン

ビビッドレッド・オペレーション→ビビッドリッド・オペリーション

問題児たちが異世界から来るそうですよ?→ボンダイジダディガイセカイカラグドゥソルディスヨ?

ちはやふる2→ディヴァャヴドゥディ

がんばれ!おでんくん→ガンバリ!オディングン

ビーストサーガ→ビーズドゥザァーガ

カードファイト!! ヴァンガード リンクジョーカー編→カードヴァイドゥ!! ヴァンガドディングジョーカーベン

がんばれ!ルルロロ→ガンバリ!ドゥドゥドド

ヘタリア The Beautiful World→ベダディア゙ザビューディヴドゥワードゥド

直球表題 ロボットアニメ→ディョックュルビィョルダイドボッドゥア゙ディベ

ドキドキ!プリキュア→ドクドク!プディクュア゙

まとめ

今期のアニメのドキドキ!プリキュアは
オンドゥル語の元ネタである仮面ライダー剣と以下の類似点が指摘されている。

・ニチアサ
・トランプをモチーフ
・剣崎真琴(キュアソード)と剣崎一真(仮面ライダー剣)の名前

また、

「相田マナ」に関しても、仮面ライダーカリスこと相川始との共通点(苗字に「相」が付くハートスートの戦士)
さらに敵幹部の一人、ベールの声を仮面ライダー剣で烏丸所長を演じた山路和弘氏が担当
(出典:ドゥキドゥキ!プディキュアとは - ニコニコ大百科)

というように、関連する要素が見いだせるということである。

つまりオンドゥル語は、今でも我々の心を掴んで離さないのだ。
今回は、以上。

関連記事:今期のアニメのタイトルをみさくら語に変換してみる
 
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[ 2013/03/12 19:40 ] ニュース | TB(0) | CM(1)

劇場版「とある魔術の禁書目録-エンデュミオンの奇蹟-」と少女革命ウテナ 

まさか禁書目録で少女革命ウテナ的なものが、
見られるとは思っていなかった。

しかし、J.C.STAFF制作で
監督の錦織博さんと松倉友二さんが関わっている事を
よくよく考えたら実は当然というぐらいといえるのかもしれない。
二人とも、ウテナスタッフの中核だったのだから。

(以下ネタバレ)

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逆襲のシャアにおける、ミライの重要性についての考察。 

機動戦士ガンダム逆襲のシャアにおける、ミライさんについての考察をしたい。

まずミライ・ノア(旧:ミライ・ヤシマ)は、逆襲のシャアの中において、
主役のアムロ、シャアは別として、脇役のクエスやナナイと比べても
登場数やセリフ数がキャラに比べて少ない。
しかしミライは作品内において、極めて重要な役割を握ったキャラクターといえる。
その理由を解き明かしていきたい。

・母親を求めたシャアと母親になったミライ

シャアは最後の最後でアムロに

「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ。
 そのララァを殺したお前に言えたことか」

という告白をする。今まで道化を演じ本音を隠してきた
シャアの本当の意味での最初で最後の本音だといえるだろう。

ではこのシャアが言った「母親」について考えるとき、
誰が宇宙世紀ガンダムで母親なのか/なったのかと考えた場合
母親に該当する女性がミライだけだからである。

確かにミライ以外にも、逆シャアまでのガンダムシリーズにおいて
登場した母親には、アムロやカミーユの母親がいる。
確かに彼女たちは母親ではあったが、
主人公達にとって決して良き母親という側面で描かれるわけではなく、
主人公達への境遇に対する無理解や別離の象徴として描かれ、
ネガティブなイメージの母親像であった。

(※ただ1stガンダムにおけるアムロの母の話は
ザンボット3から続く、乳離れの継承もあるのは留意しておきたい。)
  
さらにハヤトと結婚し、カツ達を養子として引き取ったフラウ・ボゥがいるが、
子供を身ごもった段階までしか描かれていないので、
本当の意味で母親になる直前までの姿しか描かれていない。

その中で逆シャアの段階までは、きちんとハサウェイ達を育て
夫のブライトとも良き関係を築いたであろうミライ。
シャアが求めていた母親像とは違うかもしれないが
1stから逆シャアまでの宇宙世紀ガンダムで
結婚・出産を経て母親になったことを体現していたのはミライなのである。

ミライとララァの比較において

ミライの重要性は、ララァと比較するとより明確になる。
例えば、以下のセリフ。

母親になったミライは、いつまでも子供なシャアの事を

「シャアならやるわ。母さんも昔、戦った事があるからわかるの。
地球の人は荒れるだけでしょ、シャアは純粋すぎる人よ」

と評している。

一方でシャアにとって母親になってくれるかもしれないララァも

「彼は純粋よ」

とアムロの夢の中で言っている。

母親になったミライと母親になってくれるかもしれないララァ。
その二人から同じ「純粋」という言葉を使うが、
もしかすると意図するニュアンスは違うのかもしれない。
ミライが母親目線からシャアを純粋と評したのはおおよそわかるが
ララァが自分をどこの目線/ポジションにおいてシャアを純粋と評したのだろうか。

ここでララァとの対比の意味でミライの存在がより明確化されてくる。

地球のミライと宇宙のララァ

ミライとララァの関係についてより掘り下げる上で、
キャラクターの居場所という枠組みで考える。

それはシャア、アムロ、ブライト、クエス、ハサウェイ、ナナイ、ギュネイ、チェーンなど
主要キャラの殆どが宇宙に全ているのに対して、ミライだけが地球にいる点。
これは戦いの舞台は宇宙なので、主要キャラが宇宙にいるのは当然なのだが、
この事の意味をララァという観点から考えていきたい。

この事については、機動戦士Zガンダム15話「カツの出撃」で
アムロとシャア(クワトロ大尉)のやり取りを抜粋する。

クワトロ「君も宇宙に来ればいい」
アムロ「行きたくはない、あの無重力帯の感覚は怖い」
クワトロ「ララァに会うのが怖いんだろう」
クワトロ「死んだ者に会えるわけがないと思いながら、どこかで信じている。だから怖くなる」.
アムロ「いや」
クワトロ「生きてる間に、生きている人間のすることがある。それを行うことが死んだものへのたむけだろう」.
アムロ「喋るな!!」

ここでシャアとアムロにとっての宇宙がどういう意味なのかがわかる。
つまり二人のとって宇宙とはララァと交わってしまう場所であり、
端的にいえば宇宙がララァなのだ。

だからこそララァの呪いにかかったシャアとアムロの決着は
宇宙で行う必然性が生まれ、それはララァという呪いに踊らされ続けたともいえるのだ。
そして、シャアに引っ張られたクエス、ナナイ。
アムロに引っ張られたチェーン。クエスに引っ張られたハサウェイ・ギュネイ。
つまりララァの呪いを直接・関節的に受けてしまったものが、
宇宙にいるという見方もできるのだ。

その中でララァの呪いとは無縁であり、唯一地球にいるミライが、
宇宙・地球という作品内におけるバランサーとしての役割を果たすのだ。
宇宙にはララァの呪いがあるが。ミライは地球で生きているのだ。

ミライの元婚約者カムラン・ブルームの存在

ミライの存在感を一際際立たせる上で、
1stガンダムではミライの元婚約者であった、カムランが再登場をするのはとても意味深い。

カムランは、ネオジオンとシャアの行動をブライトにリークをして
ロンドベルに核弾頭を横流しするという物語展開において重要な役割を果たしている。
そんなカムランの動機は

「私はミライさんに生きていて欲しいから、こんな事をしているんですよ」

に集約されている。つまりミライに集約されているのだ。

劇構成的に1stからZZまでの登場人物で連邦側内部にいる人物が限られている面が考慮され
カムランに再登場の白羽の矢が立ったと思うが、カムランが登場することで
元婚約者のミライ(さらに恋敵のブライト)の存在感が際立ってくるのだ。

それは上記でも指摘したように、
宇宙世紀の物語の主役はシャアとアムロであるが、彼ら以外の人間の物語もある。
その彼ら以外を代表するのがミライとブライトであり、
カムランがこれを支える構造が浮かんでくるのだ。

逆襲のシャアにとって、ミライ(もしくはブライト)の存在が重要であるからこそ
カムランが再登場してきたと私はみている。

ラストカットからの考察

逆シャアのアクシズから地球から離れた以降のシーンの、
ラストカットの繋ぎ方から考えてみたい。
特にED曲に入る前の最後の3カットをここに掲載する。

gyakusya1002.jpg
gyakusya1000.jpg
gyakusya1001.jpg

宇宙に漂流するハサウェイ(たぶん彼の視線の先にはサイコフレームの光がある)

車から降りているミライ親子

サイコフレームの光を見るミライ親子

以上のように、シャアとアムロの決着がついた物語の最後は
宇宙(ハサウェイ)から地球(ミライ)に戻ってきていることがわかる。


さらにいえば、上記の点に関して、最初に挙げたシャアの「母親」発言の直後に繋がるため、
シャアの母親発言→アクシズ地球はなれる等々→地球のミライ、という流れにもなる。
母というテーマをシャアとミライで繋げているのが映像的にもわかると思うし、
このラスト一連の流れで子供の鳴き声が挿入されるのも、
母というキーワードを使えば各々容易に解釈できるだろう。

追記

※ 最後の3つ目のカットはクリスチーナという指摘がありましたので取り下げます。

まとめ

以上、逆襲のシャアにおけるミライの重要性について考察してきた。
ミライは決して、物語の中心にいるわけではないが、
登場するだけで、各キャラの意味合いや立ち位置を決定してしまう存在だった。

そしてミライは結局のところ安彦さんのキャラクターなのだと思う。
安彦さんが描いたキャラだからこそ、ミライを母親になることができたのだ。
そしてクエスやナナイ、チェーンやレズンが
イデオンやダンバインなどでキツイ女性を描く事を得意と見せた
湖川友謙さんのラインを継承した北爪宏幸さんのキャラクターなのだ。

その意味で北爪女性キャラに満ちあふれた逆シャアの世界に
安彦キャラのミライという対比が明確化される。
その意味では、逆襲のシャアの女性たちの裏では、
安彦良和キャラVS湖川友謙-北爪宏幸キャラの戦いが起こっていたのかもしれない。

そして結局のところ、なぜミライが重要かといえば
宇宙世紀ガンダムの一つの総決算に当たる逆シャアにおいて
1stガンダムでブライトとアムロと一緒にシャアと戦い、
女であり母親になったミライの視点から
シャアとアムロの最後の戦いを地球から見届ける上で必要だったのだろう。


そしてハサウェイ、そしてミライが見た先にあったサイコフレームの光こそ

「わかってるよ。だから、世界に人の心の光を見せなけりゃならないんだろ」

上記のアムロが言った人の心の光であり、
それは人に絶望していたシャアと
人に希望をもっていたアムロの二人によってもたらされるのだ。

言い換えればつまり逆襲のシャアという物語は、
シャアとアムロ側とミライ(ブライト)側が
人の光を通して交わることで、幕を閉じる事を意味しているのだ。
 
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[ 2013/03/10 01:21 ] 富野由悠季 | TB(1) | CM(7)

今期のアニメのタイトルをみさくら語に変換してみる 

今期アニメのタイトルをみさくら語にしてみる。
ちゃんとみさくら語に変換できたものを抜粋。

ちなみにみさくら語とは、
漫画家のみさくらなんこつ氏の作品の登場人物が使う言語。

使ったコンバータはこちら


正式なタイトル名→みさくら語なタイトルな感じで紹介

あいまいみー→ぁあああ あぉいぃまいぃみー

まんがーる!→まんがーるのぉおお!

まおゆう魔王勇者→まお゙ぉおォおんゆう魔王勇者

はいたい七葉→はひぃたいぃ七葉

俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる→俺のぉおお彼女と幼にゃじみが修羅場しゅぎるのぉおお

みなみけ ただいま→みにゃみけ たらいぃま

石田とあさくら→石田とぁあああ あぉしゃくら

僕は友達が少ないNEXT→僕は友達が少にゃいぃNEXT

ささみさん@がんばらない→しゃしゃみしゃん@がんばらにゃいぃのぉおお

問題児たちが異世界から来るそうですよ?
→問題児たちが異世界から来るそうれしゅぅぅぅよお゛お゛お゛ぉ?

ぷちます!-プチ・アイドルマスター-
→ぷちましゅぅぅぅ!-プチ・アイドルマスター-

僕の妹は「大阪おかん」 
→僕のぉおお妹は「大阪お゙ぉおォおんかん」
 
以上。
 
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[ 2013/03/08 21:29 ] ニュース | TB(0) | CM(0)

あんことユズキ、豆大の距離感から考える、たまこまーけっと9話 

豆大とひなこの初恋話。
そしてあんことユズキの初恋話。

世代は違えど、恋に苦しみ、悩みそして立ち向かっていく話。
そんな豆大やあんこを支えたのは、周りのみんな。

あんこの気持ちを知った、もち蔵は自分もモニョる傾向もあるから
同じ悩みを抱えるあんこを助けるし、たまこもたまこなりにあんこを後押しする。
みんな仲間だ。

豆大の過去は豆大以外は、詳しく描かれなかったが、
喫茶店のマスターは、豆大とひなこを
フォローしていたのかもしれないなんて考えると面白い。

そういう意味では、豆大やあんこの恋を生むキッカケとなり支えていたのは
「うさぎ山商店街」であったという見方もできるだろう。


今回は、あんことユズキ君の距離感がまず面白い。
最初は、あんこはユズキ君が店に買い物に来ても
直接、面を向き合うことができずにお互いの距離が遠い。
あんこは恋に悩んで動けず、ユズキ君との距離を縮められず、
そして、もち蔵はあんこからユズキ君の引越しを聞く。
ここでさらに距離感は遠くなる。

そんな、あんことユズキ君の間に、
物理的にも精神的にも距離をできるだけ離しておいて
最後に、あんこがユズキ君の家に、走って向かうことでググッと距離感が近くなる。

tamako9001.jpg

あんこが走ることで生じる疾走感によって距離感がグッと縮む。
カタルシスが生じ、見ていて気持ちよかった。
レイアウト的にも、特にあんこが回るように走るシーンは
フレームに収まらない広い空間を用いることで、ダイナミズムを生み出していた。

tamako9-1000.jpg

そしてあんことユズキ君が実際に出会い距離感を無くしたところで
ユズキ君は「引越ししても、たまやに買いに来る」という事で
お互いの距離感は消えるように無くなる展開。見事で気持ち良い流れ。


一方で、あんこが距離感を縮めるかと思いきや。
親父の豆大は過去の事が知れると、一人でみんなと外れた場所にいる。
映写機で過去のライブを映したシーンでは、彼は映像から視線を逸していたし、
一人でギターを弾いていたシーンも、豆大が一人みんなと距離を置こうとしたシーンである。
つまり、あんこの問題が解決すると、豆大とみんなの距離感を生む状況が生じたわけ。

それは豆大が一人で過去の自分を振り返りたい事の証でもあるのだろう。
さらにいえば、豆大のそばにはいつでもひなこがいるという事でもあるのだろう。
親も子も同じようなことで悩み、そしてうさぎ山商店街で生きていくのだ。


今回はとても面白かった。今までの中でもトップクラスかも。
木上さんっぽい作画的な見所が多かったので、クレジットを見たら三好さん。

tamako9000.jpg

今回はかんなの餅つきを真似る所作や、チョイさんの踊りのシーンの作画が
動き的な密度がかなり高くてとても良かった。
また多くのキャラに見せ場があり、あんまし物語には絡んでいないとはいえ
みどりさんやかんなにも見せ場があって楽しかった。史織さんは回らなかった感じだが・・・

今回は豆大にも焦点が当たった話だが、
おそらく三好さん=木上さんはおそらく40代~50代の方だと推測できるので
もしかすると、豆大に自分の感情を寄り添ってコンテを切ったのかもしれない。
自分が豆大なら、こういう風な感じで行動するみたいな。
  
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[ 2013/03/07 07:24 ] たまこまーけっと | TB(50) | CM(0)

さくら荘のペットな彼女 21話「誰のせいでもなく雨は降る」(感想) 

さくら荘存続の為の署名活動も佳境。

世の中には頑張ってもどうしようもない理不尽があることを空太は痛感し、
この理不尽に共有できる女の子(七海)もいれば、
理不尽さを見せつける女の子(ましろ)もいるという話。
この理不尽さを象徴しているのが、サブタイトルともいえるだろう。

今の空太的には、負けたこと・理不尽を共有できる
七海の方が精神的に距離が近いのだろう。
実際に二人は本音を言い合い、抱き合い、精神的にも身体的にも距離を感じさせない。
二人の絶望に雨も後押しするようにザブザブ降り注ぐ。

一方で、ましろは空太から外れた距離感にいる。
身体的な距離は近くとも、空太と気持ちを共有できない距離感が描かれている。
空太が寝ている中で署名活動をしてしまっている点を見ても、空太との距離が描かれている。

この空太と七海、空太とましろ、それぞれの距離感が面白い話だった。
またこうした展開が、空太の痛々しさを全面に押し出した風味で描かれるのが面白い。
空太の痛々しさは空回りであり、他者からみれば、辛く感じるであろうが、
ここを描かなければ、その先にある何か、もしかすると希望を描けないのだろう。 

この絵柄や色味も含めたビジュアル感で
こうした作風になるとは思っていなかったので
今後も興味深く見ていきたい。
 
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アニメにおける枯れた技術の水平思考~ロボットアニメを取り込む変身美少女バトルアニメ 

昨日、アニメにおけるロボットアニメの操縦描写について、
そしてロボットアニメの盛衰の話題が
私のツイッターのタイムラインで流れてきて思ったこと。

ロボットアニメの操縦の話とは違うのだが、
常々私が思っていることがあったので、こんな呟きをした。

つまり美少女が変身して戦うアニメは
ロボットアニメ的なアイディアを取り入れている作品が多い。
その為に、特にマニア向けのロボットアニメと美少女が戦うアニメは
実は競合しているのではないかと思っている。

例えば、舞-HiME、リリカルなのは、ストライクウィッチーズ、シンフォギア、ビビオペなど
変身して戦う美少女にはロボット的な意匠が施され、
まるでロボットアニメのように戦っているように見られる。

こうしたロボットアニメのように戦う変身美少女たちは
「枯れた技術の水平思考」に則ったものではないかとふと思った。

「枯れた技術の水平思考」。
この言葉は、携帯ゲーム機「ゲームボーイ」の生みの親、横井軍平氏の哲学である。

wikiによると

「枯れた技術」とは、「すでに広く使用されてメリット・デメリットが明らかになっている技術」のことで、これを利用すると開発コストを低く抑えることができる。「水平思考」(エドワード・デ・ボノ(英語版)提唱)とは、今までなかった使い道を考えるということである。

とされている。

横井氏は電卓というありふれた技術から、ゲーム機:ゲームウォッチを開発し、
ゲームウォッチが大ヒットしたことで、この考えが評価された。

では、何がアニメにおける枯れた技術の水平思考なのか。
それはロボットアニメで広く使用されていた設定・展開・手法などを
美少女変身アニメで使う事で今までに無かった効果を得られるかもしれないということである。

例えば、ビビッドレッドオペレーションに出てくるあかねのおじいちゃん。
ビビッドシステムを発明し、孫にシステムを授けるおじいちゃんの姿に
マジンガーZの兜十蔵博士を思い浮かべる人も多いのではないかと思う。

今、新作のロボットアニメにおいて主人公の祖父がロボットを授ける展開はほぼ見かけない。
(エヴァやガンダムUCのように主人公の父親が与えるパターンはある)
つまりロボットアニメでは飽きられている/使いづらい設定になっている可能性が高い。
しかし美少女変身バトルアニメだと、ビビオペのように使うことができる。

他にははリリカルなのはにおける、
斎藤良成さん作画の勇者シリーズのようにメリハリの効いたアクション。
シンフォギアのクリスが放つミサイルは板野サーカス。

こうした、他のジャンルのアニメにおいて既に使い古された設定や描写・技術を
違うジャンルのアニメに上手く取り込むことで、そのジャンルの活性化を起こすのは
枯れた技術の水平思考/枯れた技術の水平思考的ともいえるのではないだろうか。
 
以上をまとめると、
特に2000年代以降の変身美少女バトルアニメは、
ロボットアニメを枯れた技術の水平思考として扱うことで
人気・評価を得てきた作品があるということである。
特に2004年の舞-HiMEと魔法少女リリカルなのはの登場が大きいと思っている。

さらにいえば、他の作品やジャンルでも
枯れた技術の水平思考が起きているものがあるのかもしれない。
それらが発見できると、また作品を見るのも面白いのかもしれない。

【参考資料】「魔法少女リリカルなのは」はロボットアニメなの!!(アニプレッション)
 
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[ 2013/03/04 19:05 ] コラム | TB(1) | CM(5)

タツノコ的リアルとリアル系作画 

ガッチャマン102話と
なかむらたかしさん一人原画の
ゴールドライタン41話「大魔神の涙」を見ていて思ったこと。

ガッチャマン102話は、鳥海永行さんが脚本・演出で
鳥海さんらしいメカ戦闘はディテールに凝り抜いた描写。
こうした写実的リアルとアニメ的快楽を
須田さん、二宮さん、湖川さんの作画力で描いたのがガッチャマンの醍醐味。

こうしたタツノコプロがキャラクター・メカも含めタツノコ的なリアルを描き、
このタツノコ的なリアルの蓄積、考え方が
ゴールドライタンのなかむらたかしさんの41話の作画に繋がるのではないかと感じた。

さらに旧Webアニメスタイルが提唱した
大雑把にいえばゴールドライタンのなかむらたかしさんさんからAKIRA。
AKIRAから御先祖様万々歳のうつのみやさとるさんという
いわゆるリアル系作画の流れを射程に入れて考えると、
リアル系作画はタツノコプロ出身者・関係者が大きく関わっていることに気づく。

なかむらたかしさんは、タツノコプロ出身ではないが
アニメーターとしてはウラシマンも含めタツノコの仕事が輝いている。
うつのみやさんもタツノコの人ではないが、
大雑把にいえばなかむらさん経由(他にも森本さん等の影響はあるが)
で自身の作画を作り上げている方。

そしてガッチャマンの鳥海永行さんの下で押井守さんは演出を学び、
押井さんはうつのみやさとるさんと組んで御先祖様万々歳を作る。

つまり、ガッチャマンで鳥海さん達が作り上げたリアルの根が
なかむらたかしさんのゴールドライタンを経て、
鳥海さんの弟子と押井さんとなかむらさんの影響を受けた
うつのみやさんのご先祖様万々歳で結実する。

元々押井さんは映画青年でアニメ好きではなかった。
そんな押井さんが唯一見ていたアニメがガッチャマンだった。
どうやらガッチャマンの、虚構の中のリアルが好きだから見ていたと押井さんは言っている。
そんなガッチャマンを作っていたタツノコの求人広告を見たのが、
アニメ界に入るキッカケになり、入社後は監督の鳥海さんの下で鍛えられた。

そんな押井さんは、旧アニメスタイル2号で鳥海さんの事を
「タツノコの権化のように言われるが、むしろ異端だった」と述懐している。
この発言を考えるに、ガッチャマンやテッカマンで見せた鳥海さんのリアル・ハード路線は
タツノコ的であるが、同時に鳥海さんの作風でもあるといえるのかもしれないと考えられる。
その意味では、アニメにおけるリアルの源流を紐解く上で、
鳥海永行さんの存在は大きいのかもしれない。 
 
それにしても102話は面白かった。
 
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[ 2013/03/03 11:11 ] コラム | TB(0) | CM(0)

人はアニメという映像表現を何として見ているのか 

この記事を書くキッカケはまっつねさんの

ラブライブ8話と出崎を継ぐものと電話(まっつねのアニメとか作画とか)

アニメが映像による演劇である。

という一文から。

まっつねさんがアニメを演劇として見ていることが明確にわかるが、
人はこのアニメという映像表現を何として見ているのか。
この「何」に当てはまるのかは、個々人の歩み/取り組み方によって違ってくるのだろう。

例えば、ある人はアニメが映像による、映画(映画的なもの)であると感じ、
また違う人はアニメが映像による物語・文学(文芸)であると感じ
また別の人は、アニメがバラエティ(お笑い)だと感じているのかもしれない。
2次創作をやっている人から見たら、ネタや設定・描きたいものを掴みたいのかもしれない。

例として思いついたのは以上だが、
他の人はアニメという映像表現を通して別の何かを感じている可能性もあるし、
もしくは映画と文芸、演劇と文芸、というように複合的に感じているのかもしれない。

こうしたアニメをアニメとして見つつも、
見ている方のフィルターに通して何が見えているのか。
その何に当てはまる要素が、見る人の視点の立ち位置なのだろうし、
その視点で個々人のアニメの語り方は変わってくるのは間違いない。

その意味で自分の立ち位置を振り返ることにもつながるし、
またアニメを語る人の語り方を知る上で、
アニメを通して先に何を見ているのかを掴むのは有効かもしれない。

アニメという丘の向こうにあなたは何が見えているのだろうか。
 
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[ 2013/03/02 12:39 ] ニュース | TB(0) | CM(0)