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「Gのレコンギスタ」10話のヘルメット演出―荒木哲郎による進撃のレコンギスタ 

「Gのレコンギスタ」10話を視聴。

荒木哲郎さん絵コンテ・演出回のWIT STUDIOグロス回。
グロス回とはいっても、進撃の巨人を支えた精鋭スタッフ勢揃いなので
いわゆる只のグロス回ではない。

むしろWIT STUDIOがサンライズにクオリティ合戦を
仕掛け殴り込みをかけるようなものであるという認識。
ただこうした各社ごとで競い合っていく様を見るのは、
見ている側としては楽しい。

11/28日に始まった「Gレコ」のラジオ、
「Gのレコンラジオ」に出演した小形プロデューサーも
WIT STUDIOグロス回の出来栄えに悔しさを覚えると話していた。

特に荒木哲郎さんという若い才能が「Gレコ」に加わることで
「Gレコ」に新たなシナジーが生まれたような出来栄えだった。

「Gレコ」10話のヘルメット演出

さて荒木哲郎さんは、富野監督の作品や
富野作品に流れる本気さが好きだったようで、
今回の10話でもその富野監督らしさをすくい上げるような演出が見られた。
それは、ベルリとノレドの頭がぶつかる時の演出。

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ベルリはヘルメットを被っているが、
ヘルメットをしていないノレドの頭がヘルメットにぶつかってしまう。
この描写には頭がぶつかるぐらいに二人の親密性は高いという意味があるが、
それでも二人にはちょっと引っかかってしまうもの(ヘルメット)がある。
二人の絶妙な距離感を描いている。

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そんなヘルメットでできてしまう距離感を生み出すのは、
ベルリの想い人であるアイーダであろう。

富野作品とヘルメット

こうしたヘルメットを物語の作劇で使うのは、富野作品ではよく見られる。

特にヘルメットをしないまま戦うキャラ(シャアとか)が富野作品には出てくるが、
これはキャラクターの余裕や油断の表現であり、
普段ヘルメットをしないキャラがヘルメットを付けると、覚悟や本気の表現として描かれる。

特に富野作品における痛烈なヘルメット描写としては
「機動戦士Vガンダム」では主人公のウッソが抱えるヘルメットの中に、
死んでしまった母の首が入っている事が描かれる。

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首が入ったヘルメットを抱える重さと、キャラ全員が心痛な面持ちが
作画できちんと表現されている。


特に先ほど挙げた10話のベルリとノレドのシーンのヘルメット描写は、
「伝説巨神イデオン発動編」のコスモとカーシャがキスをしようとするが、
お互いのヘルメットに邪魔され、キスができないシーンを彷彿とさせる。

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こちらもまた、コスモとカーシャの距離感をヘルメットを使って描いたものである。
キスができない二人の距離間。これがこの時の二人の関係性。
そしてこの後二人は生きているうちでの最後のやりとりとなった。

ヘルメットは、キャラクターの距離感や心境を上手く伝えるアイテムなのだ。

「Gレコ」と「イデオン」の比較―ベルリ・ノレドとコスモ・カーシャ

荒木さんが「イデオン発動篇」のこのシーンを意識したかはわからないが、
二人の距離感をヘルメットで描くという、共に極めて近い描写になっていると感じた。

そして「Gレコ」と「イデオン」のこの二つを比べてみると、
ベルリとノレドの関係は、コスモとカーシャの関係に近いという事もわかってくる。
それはノレドは本命ではないっていうこと。

そうなると、コスモにとってのキッチ・キッチンは
ベルリにとって誰になるのかが気になってくる。ラライアなのかも。

まとめ

荒木さんのコンテでも、富野的カットインが使われ
さらにヘルメットの描写など、富野作品らしい演出も使われつつ、
また「進撃の巨人」で見せたような、巨大なものをきちんと巨大に描くという
ロボットアニメに必要な要素もきちんと描いていたのだと思う。

その意味でWIT STUDIOが「進撃の巨人」を手がけた後に、
ロボットアニメの「Gレコ」を手がけるのは「進撃の巨人」の方法論を
「Gレコ」に援用できる意味でも、良いタイミングだったと思う。
特にGセルフが装甲をパージして、敵MSにぶつける描写とか、
「進撃の巨人」でやったことを「Gレコ」で再現していた形だ。

「進撃の巨人」のアニも「Gレコ」のアイーダも嶋村侑さんという接点も面白い。

その意味では今回は「Gのレコンギスタ」というよりも
「進撃のレコンギスタ」という内容に相応しいともいえる。
 
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[ 2014/11/30 09:49 ] Gのレコンギスタ | TB(11) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」は違和感で出来ている-富野由悠季のレコンキスタ 

「Gのレコンギスタ」9話を視聴。

今回は「違和感」をキーワードに語ってみたい。

富野作品では、画面もしくは音響面においてあえて違和感を置くことで、
物語を停滞させないような工夫が施されている。

私がこの事を強く感じたのは、8話のマスク大尉ことルインとマニィの会話。

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お互いがお互いの事を知りながら、あえて知らないフリをしつつ会話するシーン。
ただ素性を隠しているからこそ、マスク大尉は本音も言える。
二人の仲の良さを違う形で表現した格好だ。
こういう「劇」を見せるのが、富野作品の醍醐味の一つだと思う。
今までのGレコの中でも屈指のシーンかもしれない。

しかし逆にいえばこうしたシーンはわざとらしいとも感じられるし
そこには「違和感」があるという見方もできると思う。
ただこうした違和感を感じさせるような、
キャラ同士の掛け合い、物語の進行、もしくは画面上・音響上を
あえて仕掛けることで作品を停滞させないようにしている。

音響面での違和感-ステア

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例えば音響面で本作に仕掛けられた違和感を挙げるとすれば、
ネイティブっぽい喋りをするステア。
今までの声優さんとは違う喋り方だ。
9話のステアはメガファウナがキャピタルに入るシーンで喋るわけだが、
独特のステアの声によって、違和感を感じるかもしれないが、
退屈させないシーンになっていると思う。

ステア役はミシェル・ユミコ・ペインさん。
この声を聞くためにGレコを見てほしいと言えるほど、面白い存在だ。

富野監督がTVブロスのインタビューで以下のように語っている。

「実はキーマンは"バイプレイヤー"の中にいます。この"バイプレイヤー"は、実はまだ役者さんが決定していないのですが(7/22現在)、絶対条件として、予定している役者さんが演じてくだされば"必殺のキャラ"になります!『G-レコ』のオーディション時に"この個性が欲しい"という役者に出会ったんです。だから、この"バイプレイヤー"だけは役者ありきでキャラクターを創らせていただきました。

出典:TVブロス2014年8月2日号


必殺のキャラ。なんとも頼もしいと思いつつ、放送前にこの記事を読んで期待した。

ただ、このバイブレイヤーはステアかどうかわからないが、
役者ありきでキャラが作られている点を見ても、
オーストリア生まれのハーフで褐色肌のミシェルさんがモデルで
ステアというキャラクターが作られている可能性はある。

何にしてもステアの独特な演技が、Gレコの世界を彩っている、
もしくはこの世界には様々な人種がいて、個性を持っている事を表現している。

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ステアでいえばドニエル艦長がステアの肩に手を回すシーンがあるが、
これも本編の作劇上の進行から見れば必要ないものとして、
違和感を覚えるのかもしれないが、それでもこうした描写があるのは
キャラクター同士の描写を描きたいのだろう。

画面上での違和感-9話ラストの大聖堂のシーン

画面上・もしくは本編の時間の使い方で違和感を挙げるとすれば
今回ラストの大聖堂のシーン。ベルリ達がキャピタルガードに連れられてからの
法王、ウィルミット、スルガン総督、クンパ大佐が映った後のシーン。

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(※9話)
カメラが大聖堂を下から上に登るかのように引いていくのだが
時間の間を感じさせるので、これもまた違和感を感じるシーンだ。

このシーンは1話のサブタイトル紹介後の大聖堂シーンと対比になっていると推察。

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(※1話)
このシーンはカメラが上から下に降りてくる運動をしている。

つまり1話では、この大聖堂の後に世界の中心にキャピタルと大聖堂があり、
キャピタルが運営している宇宙エレベーターとフォトンバッテリーが
世界の調和を象徴していると法皇が説明するという描写がされている。

逆に9話では、今までのキャピタル・アーミィの現状と月からの驚異の事実を踏まえ
さらに不安を煽るようなBGMと黒幕クンパ大佐の登場によって、
大聖堂及びキャピタルが世界の不安を象徴している描写になっている。

わざと描写時間を長めにとって、違和感を与えつつ、
違和感の先にあるキャピタルやスコード教の裏にある不安を描いている。

大聖堂内で起こるカメラの運動は宇宙エレベーターの軌道を表現したものでもあるが、
9話ではカメラが下から上へ運動している事はその運動方向の先、
つまり大聖堂の上にある月からの驚異がある事の予兆でもあるのだろう。

まとめ

富野作品には、視聴者にとって違和感を与えるような
キャラクターの物語や絵作りや音の入れ方がなされている。
しかしこうした違和感をあえて入れることによって、
作品を物語を停滞させない力の源になっているのだ。

そしてより大切なのは、富野監督作品は常に何かに対し
カウンターを入れて作品を作っているということ。

1stガンダムであればヤマト。
∀ガンダムであれば今までのガンダム。
といったように。
既存の作品、もしくは流行にカウンターを入れてくるのだ。

そして「Gのレコンギスタ」のカウンターの矛先は、
今のアニメもしくは過去のガンダムに向けられているのだろう。

このカウンターの表現のために、
今までとは違う物語の見せ方や声優を起用して「違和感」を振りまきつつ、
物語を劇的に進行させているのが富野作品といえるだろうし、
こうした既存の作品や価値観をカウンターをいれ、
ひっくり返す見せ方をしていくのが、レコンキスタ=再征服の意味ともいえるのだろう。
 
それはGレコがベルリの既存の価値観をひっくり返している展開でもわかる。
 
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[ 2014/11/22 06:46 ] Gのレコンギスタ | TB(10) | CM(2)

「Gのレコンギスタ」8話と宗教-ものを考えなくて済む側面としてのスコード教 

はじめに

「Gのレコンギスタ」8話を視聴。

今回、特に強く印象に残ったのは、宇宙船で脱出したウィルミット・ゼナムが、
天体観測によって月に驚異が迫っていることを知るも
自身が信じているスコード教の教えを唱えつつ、
まるで思考停止のようなヒステリックな態度を取ってしまうシーン。

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今回はヒステリックなウィルミット・ゼナムから
「Gのレコンギスタ」は何を描こうとしているのかを考えてみたい。

Gのレコンギスタと宗教

まず「Gのレコンギスタ」は、スコード教という宗教が重要な役割を果たしている。
それは1話のアバンが終わり、サブタイトルのコール後のカットは
スコード教の大聖堂内で法皇がスコード教の教えを話しているシーンに移り変わり、
次に大聖堂の外に画面は移り変わり、続いてキャピタル・宇宙エレベーターを見せる
という順番で世界を説明している点でわかる。

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※1話の大聖堂及びキャピタルの描写

つまり、まず本作の世界観、リギルドセンチュリーの世界には、
スコード教という宗教が存在し、その宗教の価値観を元にして、
宇宙エレベーターのような科学技術があるという見せ方を1話でしているのだ。

おそらくスコード教は宇宙世紀によって一度は死にかけた地球を再生させるために
生まれ発展した宗教なのだろう。そして行き過ぎた科学技術を抑制するために
スコード教は機能しているように描かれている。
そしてキャピタルはスコード教と宇宙エレベーターの両輪にして成立している。

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※4話の「スコード」と叫ぶ直前のベルリ。

次に主人公のベルリが敬虔なスコード教徒であり、
4話の戦闘でカットシーに囲まれ危機に陥った時に
「スコード」と叫ぶなど要所要所でその敬虔な態度を見せる点にある。
主人公が何かの教えに帰依している作品は、私の中では珍しいと感じるし、
主人公が宗教を信じている設定は、何かしらの意味があるとも思う。

「ものを考えなくて済む」側面としての宗教

富野由悠季監督はハンナ・アーレントを引き合いに出して宗教を以下のように語る。

僕は去年の暮れ押し詰まって、ハンナ・アーレントという政治哲学者を紹介した本を読みました。読んで驚きました。17世紀、ルネサンスまでの人類のほとんどが、ものを判断し、決定することができない人の集まりだったとあったたためです。
(中略)
17世紀までの人たちはどうやって生きてきたか。ハンナ・アーレントは簡単に回答を出しています。物事を信じて生きてきたんです。信じるだけで17世紀の間、歴史を作ってきた。このことの意味を考えてください。だから、人類には宗教が必要だった。教義を信じるということは、ものを考えなくて済む、信じれば済むということ。

出典:「僕にとってゲームは悪」だが……富野由悠季氏、ゲーム開発者を鼓舞
 
宗教を信じていれば考えることなく生きていける。
もしくは生きていける時代があった。
これが私は本当なのかはわからないが、
少なくとも富野由悠季監督はこの意見に納得しているようでもあり、
それ以上にポイントなのは、こうしたハンナ・アーレントの考えを
新作アニメで表現したいと表明していることだ。

この事を踏まえて上記の引用「ものを考えなくて済む」という点から8話を考えると、
「ものを考えなくて済む」態度を取ったキャラとして、
月の天体観測を見てヒステリックになった
ウィルミット・ゼナムが挙げられるのではないだろうか。

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息子に会いたい一心で、宇宙船で単身飛び立ったのは、
「ものを考えている」という事を感じさせるが、
月からの脅威が訪れているということに関しては、
事実を突きつけても思考停止のような「ものを考えなくて済む」態度を見せる。

このウィルミット・ゼナムから感じられるのは
自分が信じている、もしくは自分の中の宗教の価値観以上の事が起こると
人は「ものを考えなくて済む」態度を見せることにある。

歴史を振り返れば地動説を唱えたガリレオ・ガリレイに対して
人々は「ものを考えなくなくて済む」態度を取り彼を迫害した。
こうした宗教を信じる事で起こってしまう人の有り様を
「Gのレコンギスタ」の8話では描いているように感じた。

そしてこうしたスコード教の教えも、
実は真実から目を逸らさせる為にあるのかもしれないとも思った。

まとめ

おそらく宗教を全否定する為に描いているわけではないが、
一方で宗教によって考えが狭まってしまい、
物事が見えなくなっている事の弊害を本作は描いている。

ポイントなのは、同じスコード教の敬虔なベルリは母親の態度に対して
「母さん落ち着いて」となだめている事。
ベルリはより客観的に物事を見ているのだろう。
それは海賊部隊にいる期間が長くなったことで、
キャピタルとアメリアの双方の思惑を感知できているからなのかもしれない。
その点でベルリは若く柔軟な思考を持っているのだろう。

最後に「ものを考えなくて済む」ということについて。
私はウイルミット・ゼナムの態度を「ものを考えなくてて済む」態度と感じたが、
では私が「ものを考えている」のかと聞かれれば、全く自信がない。
「ものを考えている」とはどういうことであり、どういう態度なのか。

「Gのレコンギスタ」ではベルリを通して、
この辺りをどう描くのかにも期待して見ていきたい。
 
何にしても息子に会いに宇宙からやってくる母親の元気な姿は、
見ていて気持ちがいいものだった。
 
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[ 2014/11/15 21:59 ] Gのレコンギスタ | TB(12) | CM(0)

「SHIROBAKO」6話のイデポン宮森発動編の元ネタの使い方について 

SHIROBAKO6話「イデポン宮森 発動篇」を視聴。
今回は元ネタの使い方がとても上手かったと思う。

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それは、イデポンの元ネタ「伝説巨神イデオン」という
地球とバッフクランの敵味方の両者が、
わかりあおうとする気分もありながらすれ違い・勘違いの連続で
最後まで「わかりあえないまま」、人類はやり直しという
ラストを迎える作品を元ネタとして使いながら
遠藤さんと下柳さんの両者が「わかりあえる」展開を迎える点にある。

「わかりあえない」作品を元ネタに使って
「わかりあえる」を描く作品に仕立て上げる。中々小技が効いている。

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また前回で板野一郎さんがモデルの北野三郎さんと遠藤さんが会っているのもポイント。
それは板野さんがアニメーターとして知られ始めた作品は「伝説巨神イデオン」だから。
イデオンの板野サーカスは、イデオンのメカアクションに大きく貢献している。
だから前回、北野さんと遠藤さんが会っていたのも、
板野さんとイデオンの関係を知っていれば、今回の伏線として見ることもできる。

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あとはイデポン展にいる時の音楽が、イデオンのOP曲「復活のイデオン」で
イデポン展から出たらEDの「コスモスに君と」に似ている曲が流れるのは面白かった。
あとイデポン本編の映像も少し流れたが、
湖川さんのアオリを意識した作画も中々よかった。
 
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そして最後に玄馬宣彦さんであろう、鉛筆書きの爆発の作画がすごく良かった。
イデオンを元ネタ回にしながらも、今ガンダムUCで乗りに乗っている
玄馬さんの作画をここぞという場面でもってくるのは、上手いなぁと思った。
 
今回の絵コンテはゆゆ式の監督でもあるかおりさん。
 
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[ 2014/11/14 12:44 ] ニュース | TB(2) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」と全体主義-状況に流される人達の物語 

はじめに

「Gのレコンギスタ」7話を視聴。

「Gのレコンギスタ」で気になっていたのは、
富野由悠季監督がここ数年語っていた「全体主義」について、
Gレコでどうこの事が反映されているのかどうか。

今回は「Gのレコンギスタ」と「全体主義」及び「独自で判断できる人」について考える。

※全体主義とは、個人の全ては全体に従属すべきとする思想・政治体制の一つ。この体制の国家は、通常一人の個人や一つの党派や階級によって支配される。その権威には制限が無く、公私を問わず国民生活の全ての側面に対して可能な限り規制を加えるシステム。全体主義の例としてドイツのナチズムが挙げられる。

富野由悠季監督とハンナ・アーレントと全体主義

富野由悠季監督は政治学者:ハンナ・アーレント及び彼女の「全体主義」を
インタビュー等で何度も言及してきた。

富野「2008年に知ったということは今も勉強中で、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』は今読んでいる最中です。ですからまだ全容は分かっていませんが、少なくとも彼女のものの考え方のロジックを一般化するために、アニメという媒体はとても便利だと、ようやく理解することができるようになりました。つまり、「アニメという表現媒体は時代性に支配されずに、コンセプトを伝える媒体なのかもしれない」と明確になったわけです。」

出典:ガンダムは作品ではなく“コンセプト”――富野由悠季氏、アニメを語る(後編) (4/4) 誠

35周年に向けて、次はハンナ・アーレントの言葉を背負った上で『新ガンダム』を作る気にもなってます。

出典:ニュータイプ2009年5月号「ファーストの見た30年間」
 
17世紀までの人たちはどうやって生きてきたか。ハンナ・アーレントは簡単に回答を出しています。物事を信じて生きてきたんです。信じるだけで17世紀の間、歴史を作ってきた。このことの意味を考えてください。だから、人類には宗教が必要だった。教義を信じるということは、ものを考えなくて済む、信じれば済むということ。

出典:「僕にとってゲームは悪」だが……富野由悠季氏、ゲーム開発者を鼓舞
 
他にも、ハンナ・アーレントとその著「全体主義の起源」
及び「全体主義」について事あるごとに語ってきた。

この富野由悠季監督の考え、「全体主義」について
「Gのレコンギスタ」にどう反映されているか見えづらかった。

「純粋培養」されたエリートとベルリ達キャピタルガード候補生達

そしてもう一度、富野監督の発言や文章を洗い出してみたら、ヒントになる資料を見つけた。

太平洋戦争を仕掛け、国民にこの上ない辛苦を経験させた軍部の参謀たち、その組織は現代日本の官僚機構とピタリ重なるのだ。日清・日露の「成功体験」で頭でっかちになり、現場を無視して無茶な作戦を命じ続けたあげく、国を破滅に導いた東京の参謀本部。僕には、かつての高度経済成長の夢に酔いしれるばかりで、アメリカにいいようにあしらわれ、台頭著しい中国には打つ手なしといった風情の官僚たちが、その生き写しのように見える。両者がかくも似た精神構造を持つ要因を調べると、そこに教育の問題が横たわっていることが分かった。
(中略)あそこまで無謀な戦争を止められなかったのは、なぜなのか? その疑問を調べていくうちに、日露戦争以降の軍人養成システムに行き着いた。陸軍の場合、高等小学校卒業者を幼年学校に迎え入れていた。まだ12、3歳の子どもに、軍人「エリート」教育を施すのだ。やがて彼らは、優先的に陸軍大学校に入学を許され、幹部になっていく。参謀たちのキャリアを調べると、ほとんどがこうして「純粋培養」されたエリートだったのである。
 
中央公論10年9月号 富野由悠季「戦争を語る言葉がない時代を憂う」 シャア専用ブログ@アクシズ

この記事は「日本のいちばん長い夏」に出演した富野監督が
戦争に負けた原因を自分なりに調べた結果、
「純粋培養」されたエリートで締められた閉鎖的な組織である軍部に原因を求め、
引いては今の高学歴エリートの集まりである今の官僚組織にも共通していると指摘する。
このエリート組織の有り様が戦争を引き起こす「全体主義」を生み出してしまうのだろう。

この純粋培養されたエリートについて。
これが「Gのレコンギスタの世界」でいえば
実はベルリ達、キャピタルガード候補生のことではないかということに気づいた。

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※1話のナットに乗り込んで宇宙に向かうキャピタルガード候補生達の姿。

候補生達はおそらく「純粋培養」な存在だろう。
それはベルリがアイーダの宇宙海賊部隊(アメリア)に連れて来られてから、
キャピタル・アーミィの軍拡路線など自分が知らない事を知る点。

アイーダからエネルギーと技術独占を行っているキャピタル、
及びベルリが信じるスコード教の姿勢を批判されている点。
キャピタルガード候補生達は自分達の世界のことしか知らない存在なのだ。

おそらくベルリがアイーダと出会わなければ、
そのまま流されるようにキャピタル・アーミィに配属されていたのかもしれない。
ただアイーダと出会い惹かれ、ベルリが彼女に特に考えもなしについていったことで、
結果的に、自分が知らない世界を知っていくことになる。

こう見るとベルリは大局的な観点から見れば何も考えずに、
感情に赴くまま、スコード教の教えに従ったまま行動していると感じる。

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一方で、マスク部隊はGセルフ捕獲と海賊部隊撃退を目標にしている。
一見彼らは考えているようにも見えるが、
しかし彼らはキャピタル・アーミィがやっている軍拡路線に疑問を抱かない。
それは組織内に属しているからそんなことを考えもしない、いやできないのだ。

独自で判断できる人々はごく限られた人しかいない

政治哲学者のハンナ・アーレントが指摘しているように、「独自に判断できる人々はごく限られた人しかいない」
出典:宮崎駿は作家であり、僕は作家でなかった―富野由悠季氏、アニメを語る(前編) (3/3)

富野監督はハンナ・アーレントの言葉を引用して以上のように語るが、
つまりキャピタル・ガード、キャピタル・アーミィのような「純粋培養」されたエリートは、
実は何も考えていない、独自で判断できていないという事にも繋がるのだ。

それはキャピタル・ガード内にいた最初のベルリも同じであり、
キャピタル・アーミィのほとんどの人間も同様だと思う。
※クンパ・ルシータ大佐は例外かもしれないが、これもまだわからない。

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一方でキャピタル・アーミィの路線に疑問を抱き続けたのが、
今回大活躍のベルリのお母さん、ウィルミット・ゼナム長官。
彼女は敬虔なスコード教徒である点から、
いやそれ以上にベルリに会いたいから、宇宙船に乗って外へ出てしまった。
この行動を見る限り、彼女は「独自で判断できる人」なのかもしれない。

一方で上記の引用の中には「教義を信じるということは、ものを考えなくて済む」
とも指摘しているので、彼女も「独自で判断できる人」なのかはわからない。

ただ素朴に息子に会いたいという気持ちは
「独自に判断できる人」に足ると私は見ている。

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またアイーダ側、宇宙海賊側=アメリアもまた独自で判断できているかはわからない。
それはアイーダが新型のアーマーズカンを見て、強力な兵器に疑問を持ったから。
彼女には、エネルギーと技術を独占するキャピタルとスコード教を批判し
大義があるようにも見えるが、それが「独自で判断」かとは別のような気もする。

クリム・ニックにも、考えがあるような態度は見られない。
こう考えると「Gのレコンギスタ」の世界の登場キャラクターは現状では総じて
「独自で判断できる」という段階に至っていないのではという感じに見えるし、
状況に振り回されて動いている人々達の物語に見えてしまう。

Gのレコンギスタの物語は独自で判断できない人々の物語

本作のキャッチコピーは「自分の目で確かめろ」である。
これは組織の体質に流されず自分の目で確かめ、独自で判断できるように
なっていてほしいという富野由悠季監督の願いでもあるのだろう。

私の中では、キャピタル・アーミィもアメリアも両者の主張や目的によって、
なし崩し的に軍拡路線を突き進んで、それが宇宙世紀で起こったような
悲劇の戦争に突入しているようにも見える。

そしてキャピタル・アーミィ側にもアメリア側にも、組織内に戦争を起こさないように正す
ハンナ・アーレントのいう「独自の判断ができる人々」が少なく、
また純粋培養されたエリートの硬直した組織が「全体主義」的になり
戦争を引き起こしてしまう話を「Gのレコンギスタ」は描こうとしているのかもしれない。

ただベルリは、そんな中でもキャピタルガードという組織から出て
世界の別側面を知った点を見ると、自分の知らない外へ出てみるというのが
諸問題を解決する一つの処方箋なのかもしれない。
※キングゲイナー的にいえば「エクソダス」。

またベルリの母、ウィルミット長官がベルリに会いにいきたいという
素朴な気持ちも「全体主義」に抗するものとして大事なのかもしれない。

まとめ

組織の悪癖と業を描き続けてきた富野由悠季監督。
「Gのレコンギスタ」では、状況に振り回されながら生きていく人々が
それでも「独自に判断できる」ように「戦争を起こさないようにする」
「千年生きていくための世界」の軌跡を描いた作品だと私は思う。

そんな想いを、ユーモアとリアルは地獄という両極を交えつつ描いた作品だと思う。
 
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[ 2014/11/08 08:27 ] Gのレコンギスタ | TB(13) | CM(0)

第2回 富野監督作品オンリー トミケットレポート 

東京の大塚にある林野会館で開催された
第2回富野監督作品オンリーイベント「トミケット」に行ってきた。

私が会場に訪れたのは、12時前。

プラモの展示、アニメックなど富野関係の資料が当たり前のように置いてあるサークルさん。
富野作品の同人誌の数々。

会場に入った途端、アットホームな熱気が感じられ、
オンリーイベントの良さを改めて感じさせられた。

会場にはプロの佐藤元さんや今木商事さんのサークルもあり、
アディゴ隊というサークルで出されていたイデオン本では、
時田貴史さんやイラストレーターの吉田明彦さんが寄稿されていた。

お目当て自体は、あでのいさんのトミケット勉強会だったが、
それとは別に12時ちょっと過ぎにサプライズが訪れた。

湖川友謙さんがイベントにやって来たのだ。

ダイターン3・イデオン・ザブングル・ダンバイン・エルガイムで
80年代の富野作品を支えた、あの湖川友謙さんが。

私は会場の外のベンチに座っていて湖川さんが通りがかったのを見たのだが、
湖川さんの顔の見て「湖川さんだ。マジか!」と思ってしまった。
イベントに湖川さんが来るなんて。テンションが3段階上がった。

湖川さんは会場内のサークルを見て回り、
それから湖川さんがイラスト付きサインを参加者に向けて描いていた。
そのイラストを描く中で、湖川さんの質問コーナーが設けられた。

湖川友謙さんの質問コーナー

質問者は3人だったと思う。

Q「湖川さんが描かれるキャラクターの目のハイライトの描き方について」

湖川さん「ハイライトが無い目を描いたのは自分が始めた」
〔※最初の質問はよく聞き取れず)

Q「現在ヘーベルハウス劇場のふるさと再生日本の昔ばなしに参加されていますが、湖川さんが手がけてみたい昔話は何かありますか」

湖川さん「何でもいい。ギャグで面白い話をやりたい。」

Q「ツイッターはやられないのですか」

湖川さん「ツイッターはやらない。ツイッターをするほど寂しくない。優れた人に会いたい。優れた人は会いに来てほしい。パソコンのメールは2週間前に始めた。」

質問は以上。また湖川さんから参加者の方に絵についてのアドバイスがあった。

「絵は勉強すればどんな絵でも描ける。人間を描くには人間を勉強する。」
「今風を描くために、今風を描く」
「絵は勉強」

と話されていた。湖川さんは後進のアニメーターを教えているが、
教えるのが好きな方だと感じられる話し方だった。

あでのいさんの勉強会

そんな、湖川さんの質問会とサイン会が行われる中で
あでのいさんが、熱く熱く富野作品のドラマツルギーについて語られていた。
会話の繋げ方、物語の作り方など含めて、極めて多岐にわたった内容でかつ
富野作品に愛が詰まった話をおよそ1時間半されたいた。

何より富野作品の熱弁を湖川さんの前でできるのはとても貴重。
私も会場で話したかったぐらいだ。

勉強会終了後にあでのいさんに挨拶。
富野愛に溢れた方だというのが伝わってきたし、
道中に読んだあでのいさんのブレンパワードの同人誌を読んでも感じられた。

まとめ

トミケットの終盤、湖川さんからトミケットについてのコメントがあった。

湖川さん「〔イベントについて)仲間と一緒にワイワイやるのはよい。ただもっとまじめな話ができるとよい。また私も仲間に入れてほしい」

というようにイベントに対して好意的なコメントが寄せられた。

また湖川さんは午後1時から3時ぐらいまでのおよそ2時間の間に
一般・サークル参加者のサインのお願いに無償で全て応えていたのが印象的だった。
湖川さんのサービス精神に、一参加者として心打たれた。

そんな私も湖川さんに「伝説巨神イデオン」の
ハルル・アジバのイラスト付きサインを頂いた。

DSC_0123.jpg

湖川さん、本当にありがとうございました。

そしてトミケットの主催者のほりかー様、楽しいイベントを主催して頂きありがとうございました。
また一般・サークル参加者の皆様、お疲れ様でした。

湖川さんも来られ、大いに盛り上がった今回のトミケット。
これも全て富野監督及びイデの導きなのかもしれない。
   
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[ 2014/11/02 23:57 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(1)

「Gのレコンギスタ」6話の「映像の原則」-ベルリとデレンセンの上手下手 

はじめに

Gのレコンギスタ6話を視聴。

サブタイトル名、そしてEDの絵を含め、
デレンセンが死ぬとは予想されていたが、
実際に死ぬシーンは衝撃だった。

greko6-1000.jpg

デレンセン「何で避けたんだ」
ベルリ「はい。常日頃、臨機応変に対処しろとは大尉殿の教えであります。」

※1話でのデレンセンとベルリの会話

1話ではデレンセンの仕置を避けるベルリの描写があったが、
今回6話のデレンセンとベルリの戦いの結末が1話のこの描写の再現となったからだ。

greko6-2000.jpg
デレンセン「ベルリ候補生だったか」
ベルリ「デレンセン教官殿」

避けて相手の懐に飛び込む、Gセルフの動きにベルリを感じ取ったデレンセン。
そしてエルフブルの動きに、同じようにデレンセンを感じたベルリ。
本編中では描かれない、二人のやりとりが、この一瞬に詰まっていた。


さて、ベルリが殺してしまったカーヒルとデレンセン。
この二人は画面的にある共通点がある。

greko6002.jpg
※2話 Gセルフ(ベルリ・左)とグリモア(カーヒル・右)

greko6001.jpg
※6話 Gセルフ(ベルリ・左)とエルフブル(デレンセン・右)

この共通点とは、Gセルフ(ベルリ)が画面左側から、
画面右側にいる敵(カーヒル・デレンセン)を倒していることだ。

この位置関係の意味を富野由悠季流「映像の原則」的に読み解いてみたい。

「映像の原則」にみる、ベルリとカーヒル・デレンセンの位置関係

まずこの位置関係を見るために、下記図を参考にしたい。

greko6-3000.jpg
参考:落ちるアクシズ、右から見るか?左から見るか?<『逆襲のシャア』にみる『映像の原則』(HIGHLAND VIEW)

これは「映像の原則」を上手・下手の要素に絞った図であるが、
このベルリ(左=下手)、敵(右=上手)の関係を上記図で見るならば
ベルリ=弱者、敵=強者という見方で捉えるのが自然だろう。
カーヒルとデレンセンはベルリ以上にベテランパイロットであるのだから。

greko6-4000.jpg
※1話 Gセルフ(アイーダ・左・下手) レクテン(ベルリ・右・上手)

また、1話のアイーダとベルリの戦闘では、
アイーダが左=下手、ベルリが右=上手にいたので、
上記の理論でいえばベルリの方がアイーダより強者だ。

このベルリとアイーダの関係を含めるとより
ベルリに対して、上手に位置したカーヒルとデレンセンは強者だったのだ。

さらに振り返れば、1話のベルリとデレンセンのシーンでも、
ベルリが左・下手、デレンセンが右・上手に位置している事も
今回の位置関係も含めた伏線でもあるのだ。

今の所は、Gセルフの性能に助けられている面も強く(もちろんベルリも強い)
性能差で強敵に打ち勝っている面もあるが、
ベルリを下手に置くことで、弱者が強敵を打ち破っているような印象を与えている。

EDにおける「映像の原則」

さて、そんなカーヒルとデレンセンを殺したベルリだが、
EDの絵は、ベルリがカーヒルとデレンセンを背負って生きていく事なのだろう。

greko6000.jpg

そして私が大事だと考えるのは、
本編中では上手・下手に対峙して戦っていた3人であるが、
EDは同じ方、左側を向いている。
これは未来を志向する意味合いがあるのだろうと私は感じる。

まとめ

あくまで、この上手・下手に関しては、私が感じた事でしかないが、
カーヒルとデレンセンが上手にいたのは意味があるのだろうと私は思う。

2話でベルリがカーヒルを殺した時は、最初は自分が殺していない感覚だったが
徐々に殺した実感をアイーダの叫びを通して感じていたようだ。
そして今回デレンセン大尉を殺した時は、今までの二人の身体的なやり取り
がリフレインされて、殺したことを本能的に実感する。
この描き方は上手いと言わざるを得ないだろう。

二人の死は、ベルリを確実に変化させていくだろう。
そして宇宙に来てベルリは何を知るのか。今後に期待したい。
 
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[ 2014/11/01 20:23 ] Gのレコンギスタ | TB(13) | CM(0)