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「Gレコ」を読み解く時の、パズル的・推理的要素について。 

「Gレコ」の読み解きが難しい点の一つに、
キャラクターが自身の気持ちを直接的なセリフで中々言わせない点にある。

むしろ「Gレコ」で描かれるのは、
「こういうシーンでこのキャラはこのセリフを言い、
こういう挙動を取るからこのキャラクターはこうであろう」
というような、キャラクターの心情を視聴者が推理しないと中々見えてこない為に
作品をきちんと見ていく際に視聴者の想像力が要する。

世界の描き方も各キャラクターが作品世界の設定の断片を語りながらも、
世界全てを俯瞰して捉えるようなものは出てこない。
この断片的に見えるセリフや描写がパズルのように散りばめられ、
このパズルのようなセリフや描写を、視聴者が繋げていく行為を求められている。

そういう意味では「Gレコ」をより見ていくためには
視聴者が推理し、パズルを解くような事が求められているのかもしれない。
そして本編でもアイーダが「想像しなさい」と言うように、
見ている視聴者にも想像力を求めている側面がある。

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例えば、一度過去の記事でも書いたが、
11話では、船体の装甲を銀色の特殊な材質で叩くと
柔らかいうちは材質の色なのだが、叩いて硬化していくと
戦艦メガファウナの装甲の色になる描写がある。

このシーンの意味を、富野監督は演出家やスタッフ達に対し
「この特殊な材質は今現在の世界にはないが、子供達がこのシーンをみて、
この特殊な材質があるかもしれないと思える、カンの良い子を支援してあげたい」
という想いがあることを訴えている。
※「Beginning of GUNDAM RECONGUISTA in G 富野由悠季から君へ」

ここでも富野監督は子供達に「想像しなさい」と訴えているようにも見える。
あくまでこの作品を通して直接的に訴えるのではなく、
想像力を刺激する手法を試みている。

こうした想像力が求められている作品だからこそ、
キャラクターの心情を、世界の構造を、本編の描写から推理し、
散りばめられた情報のパズルを解いていく形になっているのかもしれない。
 
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[ 2015/02/24 21:02 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」のシリアス性-水の重さはシリアスの重さ 

はじめに

「Gのレコンギスタ」の作風・語り口について。

本作は基本的には重い、重苦しい作風・物語であるにも関わらず
語り口は元気で爽やか、喉越しが良いと感じる。

一度滅んだ世界の再生後を描きつつ、
再生後に地球・月・金星、それぞれの環境下で住んでいた人々が
宗教・技術などによって変化していき、
紛争・戦争に再び向かっている世界を描いている。
Gレコの世界はシリアスな世界観だ。

一方でシリアスな世界観でありながら、
上述したように、語り口や見せ方までシリアスにはしない。
必要以上に登場人物の死ぬシーンを強調しないし、
大変な事が起こっているシーンでも、さらっと流してしまう。

これは過去の富野作品でも見られた傾向だ。
「逆襲のシャア」ではギュネイがあっさりやられるし、
大事なシーン、大変な事が起こっているシーンほど
富野作品では尺を短くして次のシーンに進めてしまう。

そんなシリアス性を持ちながら、軽妙さも光るのが本作。
今回21話のサブタイトルが「海の重さ」とあるように、
海、つまり水の存在が重さ、つまりシリアスを支えていた。
今回は「水」の描写から22話を語っていきたい。

シリアスを支える「水」の描写

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まず上記のキャプでは、ジット団に人間爆弾と言われていたものが、
フラミニアが装置を押したところ実は水が入っていただけに過ぎず、
水が艦内に溢れ出たシーン。

フラミニアが装置を押す前は、爆弾と思われていたから
シリアスな雰囲気でもあったが、
水が流れ出ると同時にシリアスがユニークへと転化する。
水をフックに展開させるこの落差が面白い。

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一方で今回の物語のキーポイントの一つは、
前回、ジット団のキア隊長の見境無い攻撃によって
オーシャン・リング内の水が宇宙に溢れ出てしまい
この被害をどう食い止めるかという点。

人の生命の源でもある水がそこに住む人々を殺しかねない状況。
宇宙の中に海を作ってしまう技術そのものが問われているかもしれない。
上記の海の渦を見ると、この状況の悲惨さ、シリアス性を感じずにはいられない。

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責任を感じたであろうキア隊長はMAのコンキュデベヌスの
機体そのもので破損部分を埋めるという手段を取る。
宇宙兵器が水圧に弱いことを自覚していたので、
自身の命はここで捨てると判断したのだろう。

水の重さ・水圧はMAをも壊し、人の命をも奪う。

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キア隊長を助けようとして、隊長の機体を追うものの
結局はダメで自身の機体から脱出し、
その脱出ポッドの中でキア隊長に声をかけるクン・スーン。

脱出ポッド内の飛び散る水はまるで、クン・スーンの涙を表しているようでもあり
このシーンをシリアスなものにするのに大きな役割を果たしている。

こう考えると、キア隊長のシーンで映る、水の玉藻また
レコンギスタ作戦を完遂できない、悔しさの涙と取ることもできる。

海・水とは対照的な陸地・空の描写

対照的に海以外・もしくは水の描写シーン以外ではシリアス的な感じを抑えている。

ノレドとマニィはジット団の基地に入ってGルシファーを強奪。
他のメガファウナのメンバーも、オーシャンリング内を見物しているかのよう。
ベルリ以外は直接戦闘を行っていない点もあってか
彼女達はキア隊長達のシーンのようなシリアス性で描かれていなかった。

そう見ると、それぞれの問題を抱えるキャラクターの問題と連動している事を前提に
今回は海と水の描写にシリアス性を強調させ、他の地形を舞台にするシーンでは
ユニークメインで描いていたのかもしれない。

まとめ

Gレコは重苦しい世界観・題材を取り扱いながらも、シリアス一辺倒で描かれず、
決して語り口は軽妙さを失わないでユーモアを多分に含んで所にある。
重いだけでは、重さは引き立たないし、軽妙さがあるから重さが伝わる。
シリアスな作品ほどユーモアの妙が生きてくる。

今回のシリアスの肝が「水の重さ」であるなら、
他の要素(お母さんと叫ぶ民間人等)でユーモア性を出していたのかもしれない。
そんな事を感じた22話だった。
 
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[ 2015/02/22 21:24 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(0)

宮崎駿と富野由悠季の「大量消費」観 

今週、TBSラジオの「荒川強啓 デイ・キャッチ!」で宮崎駿氏のインタビューが放送された。
その中で気になったキーワードは「大量消費」だった。

宮崎駿「何を言っているかっていうと、大量消費という文明そのものに問題があるんですよ。日本国に起こっていることだけじゃないんですよ。」

宮崎駿「大量消費文明そのものが行き詰まりつつあるからあちこちで騒ぎがおきているんだと思う。」

宮崎駿「だからこんな民族にねろくな判断がつくはずないんですよ。大量消費文明そのものが行き詰まりつつあるから、あちこちで騒ぎが起こっているんだと思うんですよ。でも大量消費をしたいんですよみんなね。それが、もうできないんです。」
 
インタビュー中に繰り返し強調した「大量消費」。
宮崎氏はこの言葉を機会があるごとに主張していた。

 
大量消費文明があと何年続くか、五十年だろうというんですが、僕は三十年くらいだろうと期待しているんです。大混乱が起こって、不幸も病気も戦争も、くだらないことがいっぱい起こるんですよ、人間の歴史ってそういうものですからね。大変なことなんだけれども、大量消費文明という嫌らしいものが終わるだけでもいいと思っているんです。
 そういう大量消費文明のまっただ中にアニメーションも入っていて、僕自身ジレンマの中にありながら解決がつかない。この世の中に生きているということはそういうことだと思います。逃れられないのなら、時代と面と向き合って作品を作っていくしかない。

出典:宮崎駿「折り返し点」(岩波書店)
  
 不安だけは着々と膨らんで、20歳の若者も60歳も区別がつかなくなりました。そして、突然歴史の歯車が動き始めたのです。生きていくのに困難な時代の幕が上がりました。破局は世界規模になっています。おそらく大量消費文明のはっきりした終りの第一段階に入ったのだと思います。風が吹き始めた時代の風とはさわやかな風ではありません。死をはらみ、毒を含む風です。人生を根こそぎにしようという風です。

出典:宮崎駿「本へのとびら―岩波少年文庫を語る」(岩波新書)

大量消費・大量消費文明に強い警鐘を鳴らす宮崎監督。
一方で自身がアニメ制作という大量消費文明の送り手側に立っている
矛盾やジレンマにも自覚的でいる宮崎監督。

この大量消費という言葉が気になったのは、宮崎監督と同じ1941年生まれの
富野由悠季監督の新作アニメ「Gのレコンギスタ」の19話でも出てきたからだ。

Gレコ19話のクレッセントシップのキア・ムベッキ艦長が以下のように話す。

ムベッキ「人類は大量消費と戦争で地球を住めないようにしたのです。
そんな人類にはアグテックのタブーは必要でした。
その代わり財団はフォトンバッテリーは無条件で提供してきました。」

「ガンダムーGのレコンギスタ」19話より


Gレコの世界は大量消費と戦争によって文明が滅び、再生された世界を描いている。
つまり大量消費をしていると、世界が滅ぶという事を直接言っていると思う。

宮崎氏がインタビューで大量消費と喋っているとほぼ同じ時期に、
富野監督の新作アニメで大量消費という言葉が出てくる。
Gレコの脚本自体はずっと前にできたいたものだろうと推測できるが、
ほぼ同じタイミングにと二人から(富野監督の場合は作品からだが)
同じ言葉が出てきたことに、二人に興味がある私としては気になってしまう。

富野監督も大量消費については作品以外でも次のように語っている。

富野由悠季「60億人の大量消費行為は、ひょっとすると戦争よりも悪かもしれません。しかし、僕らの世代は新型車を買うのが夢で、その感覚をぬぐうことができないまま地球を消費し続けてきました。」

ガンダムエース2007年11月「教えてください。富野です。VS枝廣淳子」より


富野「戦後、日本は高度成長を続けてきて、大量消費が始まりました。文化生活を営んで、一億みな中流意識を持ってしまって、飽食の時代を過ごしてきた。僕も含めて国家の隆盛期に生きてきた今の日本人は、世界的に見て異常なほど贅沢に暮らしてきたわけです。何も考えないで暮らしていける時代を生きてきた人に、使えるヤツなんていませんよ。せいぜい角が立っている人間がいても、僕のレベルまで(笑)。でもこれからの日本はそうはいかない。

石川智晶 special contents第7回「石川智晶VS富野由悠季」より


富野由悠季「為替レートや株価が秒単位で上下し、巨額の利益や損失が生まれる。現実から離れたバーチャルな世界ですが、それで世の中が動くことを人々は常識と考えている。『給料が毎年上がらなければ困る』ことも、今の時代は真理ですがマクロレベルで言えば、地球資源の限界が見えているのに、さらなる大量消費を推し進める」

2013年2月8日朝日新聞「ガンダムの警鐘」より


戦後の高度成長時代に多感な時期を生きた二人にとって、
大量消費という行為に様々に強い思いがあるのだろう。
富野監督も新しいもの好きだから、新しいものを買い、新車に憧れ、
でもそれではダメだというジレンマも抱えていた。

さらにいえば、二人共に多くの人に自分の作品を送り出す
大量消費型の大衆娯楽・大衆文化であるアニメの送り手でもあり、
その日本のアニメを大きく牽引してきた二人だからこそ、
ただ時代の流れに乗っていいのかという思いもあったのだろう。
※二人共に時代へのカウンター意識が強いと思う。

同年生まれで「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「未来少年コナン」で
一緒に仕事をする機会もあったが、やがてお互いの道に突き進み大成したお二人。
作風やジャンルは別々だが、それでも「大量消費」という言葉を通して、
二人にも共通の問題意識があることを浮き彫りになった、
宮崎氏の直近のインタビューだった。
 
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[ 2015/02/19 20:57 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(3)

「Gのレコンギスタ」が抱える「想像」という問題意識 

「Gのレコンギスタ」20話を視聴。
今回、気になったキーワードは「想像」だ。

特に後半の戦闘が激化するあたりから、
「想像」をキーワードとする3つの描写が印象に残った。
今回はGレコの「想像」について、
本作が抱える問題意識と合わせて見てみたい。

「想像しなさい」と「良い結果を想像しましょう」

まずベルリがジット団の攻撃に対抗するために、
オーシャン・リングの近くに行こうとする時のシーンの
ベルリとアイーダの会話を見てみる。

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ベルリ「ロザリオテンがあるところも見当がついてきました。
けどテンポリスはこの空域では姿は見せません。メガファウナどういうことなんです。」
アイーダ「想像しなさい」
ベルリ「想像しなさい。聞いたことがあるセリフ」


ベルリが聞いたことがあると言ったのは1話で
アイーダがGセルフに乗ってクラウンにやってきた時、
ここでベルリがアイーダの通信を聞いた言葉だった。

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(※↑1話、ベルリがアイーダの通信を聞いているシーン↑)

アイーダ「このクラウンは人質にとった。20分後に開放します。
この件をキャピタルタワーの管制室に伝えることは許可する。」
キャピタルタワーの人「貴様の言うことを聞かなければどうなる」
アイーダ「想像しなさい」


ここで面白いのは、ベルリはアイーダの通信を聞いてはいるのだが、
「想像しなさい」と言った瞬間に、ベルリが表情を変えた点。
ベルリ的には「想像しなさい」という言葉が直感的に引っかかったのだろう。
だからアイーダが今回20話で「想像しなさい」と言ったときに、
1話で感じた心の引っ掛かりが残っていたから、ベルリはリフレインしたのだろう。


次にジット団に主導権を握られたクレッセントシップ内で
頭に爆弾をつけられ怯えているクレッセントシップ女性副艦長とエル艦長の会話。

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クレッセント・シップ女性副艦長「わ、私もう、艦長」
エル艦長「良い結果を想像しましょう

頭に爆弾を仕込まれた女性副艦長の怯えは、
おそらくフォトン・バッテリーを運ぶクレッセントシップは相当に安全な場所で
命のやり取りや戦争を経験していない事にあるのだろう。

そんな副艦長の怯えの元は、自分は死ぬかもしれないと想像しているからである。
だから艦長は死ぬという最悪の結果を想像するのではなく、
逆の良い結果を想像しろとアドバイスしたのだろう。

この二つを見ると、まずアイーダに「想像しなさい」と言わせて
エル艦長に「良い結果を想像しましょう」と言わせているあたり、
二つを結びつけて、ひとつの主張にしているといえる。

良い結果を想像すること・現実を視ること-ベルリとキア・ムベッキ

そんな二つの「想像」というキーワードを本編で投げ込んでから、
館長のセリフから8カット後(約20秒後)に、ジット団のキア・ムベッキが
Gセルフの手脚を切るイメージを想像する描写がある。

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このキア・ムベッキの想像は、カットの繋ぎ方を見るに
まさにエル艦長の言う「良い結果の想像」を描いているといえる。
ただこの後、キア・ムベッキはGセルフの捕獲に頭がいっぱいになり
Gセルフの攻撃に躍起になってしまいオーシャン・リングの底を傷つけ破壊し、
オーシャン・リング内の水が宇宙に流れ出てしまうという
おそらくジット団にとってもタブー破りの極致をやってしまう結果になる。

この事の意味を考えると、キア・ムベッキにはGセルフを捕獲する事に対しては
良い結果を想像することができたが、オーシャン・リングを傷つけずに
どうやって戦うかを全く想像できなかった結果といえる。

それはキア自身が言っていた「地球人は寄生虫だから殺菌するだけ」という
セリフを見ても、地球人蔑視と自分達ビーナス・グロゥブ側以外の技術を
見下して甘く見た想像をしてしまったからだといえる。

一方のベルリは、ジット団の戦い方を見ながら
オーシャン・リングを傷つけるのは「タブー」である事を想像し見抜く。
キア・ムベッキは「現実というのものは戦い取るものだ」と言ったが
良い結果だけを想像し、現実を直視できなかったキア・ムベッキ、
現実を直視した想像で、相手を見破ろうとしたベルリ、
この二人の想像の仕方、戦い方の差がきちんと描写されていた。

そしてベルリがGセルフがジャイオーンと互角以上に戦えたのも
戦う直前に上記で取り上げたアイーダに「想像しなさい」と言われた事が
大きかったのかもしれない。

Gのレコンギスタの世界観の想像の源泉-地球がもたんときが来ているのだ!

「Gのレコンギスタ」はどんな想像をして描かれた世界なのか。

それは宇宙世紀時代の戦争と地球の大量消費の為に
失われた地球の文明が1000年後に再生した時代(RC)を描いている。
この事の意味は…。富野由悠季監督は過去に以下のような発言をしている。

 「我々は今環境問題、エネルギーが少ない地球というものに直面しています。現在までの人類の能力論や経済論だけでは、1000年という時間を我々は地球で暮らせないわけです。そういう問題がわかってきた時に、日本人でも人類が生きのびるためには、ニュータイプにならなければならないのではないかという考え方を持つ人が出るようになってきました。30年前のアムロが、ようやくここで定義しつつあります。我々は現在以上の能力を持てる可能性にチャレンジしなければいけません。アムロはガンダムしか操縦できませんでしたが、我々はエネルギーがなくなった地球でも1万年生きのびることができるかもしれない。人にはそういう可能性はあるのではないかというシンボルにニュータイプはなりうるのではないか、ということです」

出典:ガンダムが30年ヒットした秘密2(富野由悠季監督)

1000年暮らせない。これはリギルドセンチュリーが
宇宙世紀から1000年後という設定と符合する事でもわかるように
それは富野監督は今のままでは地球は1000年暮らせない・もたないと想像している。
この考え自体は「逆襲のシャア」のシャアのアクシズ落としでもわかるように、
監督がずっと抱いてきた問題意識でもある。

ただこうした問題意識を「逆襲のシャア」ではアクシズを落とす事を手段の一つとして描いたが、
リギルドセンチュリーという1000年後を描いて、そこで生きる人々の考えはどうなのか、
技術はどう扱われているのか、どう宗教を扱ったらいいのかを通して
未来を描く事で自身の考えを表明しているのだろう。

運用の制約下にある技術、あえて技術を発展させない選択、
そして様々なタブーがある世界。こうした世界であれば1000年生き延びることができる。

そんな事を富野監督は、アイーダの「想像しなさい」と言うように想像しているのだろう。

まとめ

アニメは動く絵である以上、人が想像したものを描く表現媒体である。
想像しなければ、何も描けない。何も生み出せない。
庵野秀明監督も「アニメはイリュージョンを描くのに向いている」と言ったように
特にアニメは想像したものを描く事に適している。

そんなアニメだからこそ滅びかけた時代から1000年後の地球の再生と宇宙に住む人々を
様々に富野監督とスタッフが想像して描いているのが「Gのレコンギスタ」なのだろう。

そしてきちんと現実を直視した「想像」ができなければ、
現在も未来も生き抜くこともまた描いているのだろうし、
一方で、良い結果を想像して動かなければ、
世界もまた変わらないのだろうという事も伝えているのかもしれない。
 
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[ 2015/02/15 21:48 ] Gのレコンギスタ | TB(5) | CM(0)

「ドラゴンクエストⅣ」は愛する者を失った二人の復讐の物語である。 

ファミコンソフト「ドラゴンクエストⅣ」が今年の2月11日で発売25周年となった。
今回はドラゴンクエストⅣ(以下ドラクエⅣ)の物語について語ってみたい。

1章から4章まで

ドラクエⅣは復讐の物語だったと思う。

本作は5章構成だが、1章から3章までは、復讐の色は見えてこない。
1章のライアンでは、戦士としての職責を描き
2章のアリーナ達では、おてんば姫の好奇心を描き
3章のトルネコでは、商人の探究心と商才を描く。
キャラクターの特徴に沿った物語展開を行っている。
そして4章から復讐の物語としての本作が色濃くなる。

4章では踊り子マーニャと占い師ミネアの姉妹は、父親を殺したバルザックを探し
やがてバルザックの所在を突き止め、一矢報いる。
しかしバルザックの後ろ盾であるキングレオに返り討ちをされる。
そして姉妹は国外へ落ち延びる。姉妹の復讐は失敗に終わる。

5章前半

そんな姉妹の失敗を受けて5章冒頭は、
山奥に住む勇者の村が魔族の首魁デスピサロに滅ぼされる展開になる。
育ての親、剣術や魔法の死、そして幼な馴染みシンシアとの死別。
特にシンシアは変身の魔法「モシャス」を使い、勇者の身代わりになって死ぬ壮絶さ。
この一連の流れはプレイヤーに衝撃を与えたであろう。

そして滅ぼされた故郷を背にして勇者は旅を始める。
手がかりはデスピサロという魔族の首魁。
この勇者の旅の目的としては、愛する人を、村を滅ぼされた
無念を果たす為にデスピサロを探し復讐を果たすという解釈が自然にくると思う。
こうして4章から5章にかけて、復讐に失敗した姉妹と復讐の為に旅する勇者が
出会うことで、勇者の運命が大きく好転する事を描いている。

そして勇者達は他の仲間たち(導かれし者たち)と出合い、
マーニャ・ミネア姉妹の敵であるキングレオとバルザックと再戦する。
バルザックは進化の秘法でより強い姿に進化したものの、
力をつけた勇者たちに倒されてしまう。
二人の姉妹の復讐もキングレオ・バルザックを倒すことでひとまず達成。
そしてバルザックの背後にいたのはデスピサロだったことがわかり、
バルザックもまたデスピサロという巨悪の手先に過ぎないことがわかる。
モンバーバラの姉妹の復讐は終わっても、勇者の復讐はまだまだ続く。

5章中盤・後半

ただそんなデスピサロも勇者が旅をしていく内に明らかになることがある。
それはエルフのロザリーの存在だ。
ロザリーの流す涙が宝石となるために人間に狙われていて、
そんなロザリーに対しデスピサロは哀れみと愛情があったのだろう、
彼女を守るために人間を根絶やしにすることを決意する。
その為に魔族の存在を脅かす勇者の存在を疎ましく思い、
勇者の居場所を突き止め、勇者を滅ぼし、目的は達成されたかに見えた。

しかし勇者は仕留めそこない、それが故にキングレオなどの部下を失い、
そして魔族側の切り札として見なされていた
地獄の帝王エスタークも勇者達に倒されてしまう。

さらにロザリーもデスピサロがエスターク探しに躍起になる中で人間に惨殺されてしまう。
結果デスピサロは人間への復讐心に心が支配され
黄金の腕輪によって完成した進化の秘法により究極進化を遂げ、
自らの記憶を失うとともに究極のモンスターとして生まれ変わることになった。

こうしてドラクエⅣの物語は
愛する村、愛する人シンシアを失った勇者と
愛するロザリーを失ったデスピサロという
愛するものを失い、復讐心を持った二人の戦いという構図になる。
それぞれの正義と復讐。

5章後半~ED

最終的には、一人ぼっちのデスピサロに対して
仲間が傍に勇者はデスピサロを倒すことができた。

デスピサロも哀れだった思う。ロザリーを守るために、
人間全てを滅ぼすという果てしない野望に身を殉じるよりかは
ロザリーの傍にいてあげたほうが良かったと思う。
しかし彼自身の行動が結果的に勇者を目覚めさせ、
ロザリーを失い、最後は自らのみを滅ぼすことにもなった。

一方の勇者も復讐を果たしたとはいえ孤独だ。
仲間達はそれぞれの居場所があるのだが、
マスタードラゴンに天空城で住む事を拒絶した
勇者の居場所は滅ぼされた山奥の村しかない。

焼け果て朽ち果てた村に戻る勇者。
この姿に復讐の無意味さを感じずにはいられない。
そんな勇者にシンシアの姿が現れ、勇者を抱きしめる。
そして後ろには導かれし者たちが駆けつける。そしてエンディングが始まる。

まとめ

ドラクエⅣは勇者とピサロというそれぞれ愛するものを失った
二人が戦い合うという悲劇の物語だったと私は思う。
そして復讐を果たしても、元には戻らない虚しさと儚さを描いてもいたと思う。
ただ勇者には共に戦った仲間たちがいた。それは勇者の救いだったと思う。

最後のシンシアについては解釈が別れるところだが、
私は素直にシンシアが生き返った(生き返った理由は不明としても)と思いたい。

最後に。ドラクエⅣは魔族側にもプレイヤーを共感する動機がある事を描いたが、
これは天空シリーズとしてのドラクエがロトシリーズ以上に
キャラクターの描写に拘った方向性を指向した事を象徴するものだと思う。
そんなキャラクター同士のぶつかり合い、そして個性ある仲間達の魅力を描いたのが
「ドラゴンクエストⅣ」の魅力だと私は思う。

※今回の記事はFC版のドラクエⅣが対象。
 
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[ 2015/02/13 20:57 ] ドラゴンクエスト | TB(0) | CM(1)

「Gのレコンギスタ」はグランドホテル方式のロードムービーである事について 

前に書いた記事と重複する部分もあるが
「Gのレコンギスタ」はロードムービー、もしくは旅番組のような作品なのかもしれない。

ベルリとアイーダが中心となりメガファウナに乗って地球と宇宙の様々な所に赴く。
ベルリはアメリア、トワサンガ、そしてビーナス・グロゥブといった各場所へ訪れ
そこで人々と出合いながら、自分が知っていた世界が狭く、
育ての母親から教えられた事やスコード教だけではない世界があることを知る。

アイーダもまた、カシーバミコシに行けばトワサンガ、
トワサンガに行けば金星へ行くと言い、アイーダは一つ何かを知っては
また新しい真実を知るために新しい場所へ向かおうとする。

その旅行先では国家があるものの、複数の派閥に分かれている。
そうした状況下でベルリ達は各勢力とロボットプロレスを行い、
戦いを通して人々の考えや人となりを知っていく。
宇宙旅行を通して、世界や自分の境遇の真実を発見していく構造になっている。
それが「リアルは地獄」であるかもしれないのだが。

そして旅行とはいいつつ、各勢力の争いを通して、エネルギーや宗教といった問題、
宇宙と地球の関係などを盛り込みつつ、人間はなぜ戦争を起こしてしまうのか、
戦争に突き進んでしまう全体主義がどう起こってくるのかを描いているのかもしれない。

人種や諸勢力の壁を越えるメガファウナというグランドホテル

そして興味深いのは、ベルリとアイーダの旗艦であるメガファウナは
新しい場所に訪れるたびに、新しいクルーを増やしていることだ。
まず3話のラストでアイーダに連れてこられたベルリとノレドとラライア。
次に10話以降はキャピタルガードのケルベス。
そして捕虜となったトワサンガのリンゴもメガファウナに協力。
またトワサンガのレジスタンのロルッカ、ミラジ、フラミニアもメガファウナに協力した。
(※フラミニアはスパイでもあったが)

各勢力の人々がメガファウナという一つの船に乗って旅をする。
そして彼らは属する勢力は別でも一つの船で同じ目的のために動く。
あくまで印象論だが、それは強制ではなく彼らの自由意思のようにも思える。

そもそもメガファウナのクルーはベルリ達がやってくる前から
バラエティーな人々が搭乗していた。
ハッパ、アダム・スミス、ステア、ギゼラetc。
服装も肌の色も違う、つまり生活習慣や常識感覚も違うであろう彼らが
一つの船で働き、生活している土壌が元々あったからこそ、
ベルリ達も寛容に受け入れたのかもしれない。

こすいた一つの大きな場所に様々な人々が集まり物語が展開する方式は
グランドホテル形式といえるし、この方式は「機動戦士ガンダム」からの
富野作品の大きな特徴ともいえるだろう。

まとめ

旅行をしていきながら、新しい仲間を増やしていく。
ロードムービーであり、グランドホテル形式でもあるのが
「Gのレコンギスタ」の骨子のひとつではあると思う。
 
見たことがない場所を見て感じる旅そのものの楽しさ、
旅しながら増えていく仲間、そして自分とは違う考えを持つ人々との出合いを通して
ベルリ・ゼナムは世界の真実を知ることになるのだ。
 
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[ 2015/02/11 19:48 ] ニュース | TB(0) | CM(1)

「Gのレコンギスタ」は考える事そのものを考えるアニメである。 

「Gのレコンギスタ」19話を視聴。

今回注目したいのは「考える」ということ。
クレッセントシップ内でベルリ達がエネルギー問題について話すシーンの一幕。
アイーダが強くアメリア側の主張を通そうとするが、
周りのみんなに「教わったこと」「感じていない」と指摘される。

以下、各キャラのセリフと照らし合わせて再現してみる。

アイーダが考えていたのは「刷り込み」でしかないこと

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ムベッキ「人類は大量消費と戦争で地球を住めないようにしたのです。
そんな人類にはアグテックのタブーは必要でした。
その代わり財団はフォトンバッテリーは無条件で提供してきました。」

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アイーダ「エネルギーの配給権をキャピタルタワーに独占させたために他の大陸の人々は…」

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ノレド「アメリア人だけの感覚だけで喋るな」

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アイーダ「人の自由を侵害されています」

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ベルリ「人は自然界のリズムに従うものでしょ」

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アイーダ「でも、アメリアでは」

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ムベッキ「そのように教わって、お育ちになったのですな」

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アイーダ「教わった、教わったって」

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ノレド「自分で感じたことではないってことだよ」

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アイーダ「刷り込まれたということ」

以上

アイーダがキャピタルタワーにエネルギーの取扱いを独占されてアメリアなどの国が
不自由している事を主張したいようだが、それが自分の感じたことではなく
「教えられた」「刷り込まれたこと」でしかなかったと看過される。

このアイーダが指摘されることについて、以下の引用を見てみよう。

富野由悠季「17世紀までの人たちはどうやって生きてきたか。ハンナ・アーレントは簡単に回答を出しています。物事を信じて生きてきたんです。信じるだけで17世紀の間、歴史を作ってきた。このことの意味を考えてください。だから、人類には宗教が必要だった。教義を信じるということは、ものを考えなくて済む、信じれば済むということ。」

出典:「僕にとってゲームは悪」だが……富野由悠季氏、ゲーム開発者を鼓舞
 
政治哲学者ハンナ・アーレントの話にもおよび、彼女が指摘している通り、「独自に判断できる人は限られている」、と痛感できる感性を育ててもらえたという。

出典:富野由悠季監督が語る「ガンダム30周年」
 

富野監督は新作をGレコをハンナ・アーレントの考えをアニメで表現したいと語ってきたが、
今回のアイーダの描かれ方は、ハンナ・アーレントの「独自で判断できる人は限られている」
「人は物事を信じて生きていた」という主張を通して、育ての親のスルガン総監から
物事を教えられた事を信じて生きてきたが、
それはアイーダ独自の判断では無い事を描いているのだろう。

7話でアイーダはアメリア側の新型兵器アーマーズガンが登場した時に
強力な兵器の存在に対して、彼女なりの疑問を呈していたりしたのは、
彼女の独自の感性だったのかもしれない。

ただエネルギー問題に関しては、国家の中枢にいる育ての親の
いわれるがまま事を信じて、その考えのまま19話まで来てしまったのだろう。
この刷り込まれを他のみんなに指摘されたわけである。

現実に生きている我々も風習・習慣・常識といったものを「刷り込まれ」、
「刷り込まれたこと」に従って生きていけば、徹底的に考えなくても
生きていけるという意味でアイーダと同じなのかもしれない。

こうしたアイーダの描写を見るに「Gのレコンギスタ」という作品は、
「考えること自体を考えていく」作品でもあるように感じた。

考えること・感じる事

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富野作品は、今までのガンダムのニュータイプも含めて、
人の認識の仕方、考え方そのものを考えるような志向性が強い。
こうした認識の仕方を、ハンナ・アーレントの考えを取り入れつつ、
アニメで表現しているのが「Gのレコンギスタ」なのだろう。

具体的に富野作品で「考える」といえば、「機動戦士Zガンダム」最終話で
カツがシロッコを庇うサラに「なんでそう頭だけで考えて」というシーンがある。
他にも富野作品では考えることも大事だが、それ以上に素朴な態度で
自分自身が感じた事に身をゆだねて、態度を作っていくことの大切さも語られる。
他にも「ブレンパワード」の宇都宮比瑪も考える以上に感じたことのままに
行動する女性を描いていた。

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アイーダ「数字だけの理解は数字だけだもんな」

アイーダは自分からクレッセントシップまでの距離が1キロあることに実感が沸かない。
それを数字だけの理解にしてしまうと、なにかわかった気になってしまう。
そんな事を伝えようとしているのではないだろうか。

まとめ

「Gのレコンギスタ」は本編で起こるエネルギーや宗教といった問題以上に
人の認識の仕方、つまり考える方について考える、感じ方そのものについて
問うような事をハンナ・アーレントを手掛かりに取り上げている作品であるのかもしれない。

今回の事があったとはいえ、アイーダは聡明な女性であり、
キャッチコピーの「自分の目で確かめろ」を地で行く方でもある。
トワサンガに行こうと言いだしたのも彼女であるし、
ヘルメス財団に会いに行こうと言いだしたのもアイーダである。

本編でもベルリがアイーダにアイーダの育ての親のスルガン総監の事を
「立派な方」と言ったように人に「刷り込まれた」事が悪いことではない。
確かに人は習慣・風習・常識、親や教育者の教育によって生きているわけだが、
大事なのはこうした事を実際に個々人が本気で疑い、検証して、
実際に感じることなのだろう。

最終的にアイーダはハンナ・アーレントが言う「独自で判断できる」
女性になるだろうとは思う。それが本編で描かれるかどうかはわからないが、
最終的に彼女の人生においてそうなると信じたい。
 
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[ 2015/02/08 09:54 ] Gのレコンギスタ | TB(7) | CM(2)

「Gのレコンギスタ」はカッコイイロボットアニメである事を訴えたい。 

「Gのレコンギスタ」18話を視聴。

この作品はモビルスーツのアクションと展開がカッコイイ。
今回はGレコのロボットアニメとしてのカッコよさについて語りたい。

クレッセントシップに痺れる

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今回特に痺れたのは、クレッセントシップにメガファウナが逃げ込むシーン。
キャピタルのマスク、アメリアの天才クリム、そしてトワサンガの攻勢から回避し、
引いてはビーナス・グロゥブとヘルメス財団に会いにいくのが目的。

ここでクレッセントシップを傷つけると政治問題になるということで、
どの勢力も傷つけないように最初は配慮するのだが、
戦闘が激化すると、一番敏感なはずのトワサンガですらビームは使ってしまう。

そんな中、メガファウナがギリギリの所で、クレッセントシップに入り込む展開。
傷つけないように飛行するステアを含めたメガファウナのクルー達。
船体が当たらないよう、モビルスーツで抑える、アイーダとラライア。
そしてメガファウナが、クレッセントシップの中央にたどり着いた時の
上記キャプ絵を見た時に大いにカタルシスを感じた。
この一連の流れはハラハラドギドギ感を味わえて、とても面白かった。

あと上記のキャプでいえば、クレッセントシップのデザイン、
特に形状・スタイリングのカッコよさに痺れる。
名前通り三日月をモチーフにした美しい曲線のスタイリング。
そしてメガファウナが小さく見えるほどの巨大さ。

未来の宇宙には、こんな形の船もあるのかと思うと、
心がワクワクさせられる仕上がりになっている。

Gセルフとガイドラッシュとピブロンに痺れる

greko18001.jpg

次にかっこよかったのは、ロックパイが乗るガイトラッシュ。
ガイトラッシュがビームマントの出力全開で、
Gセルフを特攻を仕掛けるような感じで襲いかかる感じが凄くよかった。

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さらに大事なのは、ロックパイのビームコート攻撃がドラマになっていること。
このガイドラッシュの捨て身的な攻撃は、上官のマッシュナーさんの心をも動かす。
メカアクションからキャラクターのドラマが切り離されずに描かれるのもポイント高し。
このマッシュナーさんを見ていると、マッシュナーさんの方がロックパイに
惚れている感じ。母性的な優しさで子供を包む感じの愛し方だが・・・。

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次にピブロンが脚を切り離して、天才クリムの宇宙用ジャハナムに当てるシーン。
天才クリムは想定外の事態に馴れない人だなぁと思いつつ、
ロケットパンチならぬ、ロケットキック的なギミックがカッコよかった。

greko18-1001.jpg

Gセルフに関しては、ビームサーベルを二刀流で使っているのがカッコよかった。
二刀流ができる、それはベルリのパイロット技量が上がっている事を示している。

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最後はガイトラッシュのビームコートまでを退けてしまう
Gセルフのフォトンバッテリーを使った力。
光るというのがカッコイイし、その後のGセルフの動きもカッコイイ。
これだけの力を秘めていると、どの勢力もこの機体をほしがるのはわかる。


Gレコは毎回、新しいモビルスーツ、もしくはモビルスーツの新しい武器や戦法を
極力使うようにして今まで見たことがない戦闘に仕立て上げている。
ロボットアニメの魅力は、そこに出てくるロボットの魅力であり、
そのロボットのスタイリングや武器、そしてそのデザイン付随する世界観が
引いては作品世界の世界観にも繋がってくる。

Gレコは各勢力が乱立する作品だ。
今回でも、メガファウナ・キャピタル・アメリア・トワサンガと4つの勢力があり、
さらにトワサンガはロックパイとガヴァン隊長が対立して、5つが分かれて戦った。

そんな各勢力のモビルスーツには、その勢力ごとの特徴が出ている
スタイリングやデザインが施されていて、それだけでも見ているのが面白い。
(公式サイトのメカデザインを見ていると、理解はより深まる)
そしてその別々な勢力ごとのデザイン(世界観)があるということは、
それだけ世界の価値観は一つではなく複数・無数にあるという事でもあり、
だからこそ、各勢力は戦争をしてしまうという事にも繋がってくる。

何より、毎回のように新しい機体が出てくるのだから、目が離せない。
そしてそんな新しい機体が出てくる中で、ベルリとGセルフが
新しい戦い方と、秘められたGセルフの力で次から次へと打ち破るのが爽快なのである。

まとめ

ロボットアニメは、カッコイイ展開や内容であるのが望ましいと思うし、
その作品が新しい価値観を提供する内容であれば、なお嬉しいと思う。

Gのレコンギスタは「ガンダム」という非常に制約がある枠組みが存在しているが、
既存には無い新しいロボットアニメのカッコよさを追求していると思うし、
その面白さを追求している作品だと思う。
 
ロボットアニメは時代ごとのカッコよさ、普遍性のあるカッコよさを追求できるジャンルだ。
(※ただこのカッコいいことも、本編中に言われた「戦争をしたがっている世代が
生まれてきている」とも関係するなら、難しい問題でもある)

そして「Gのレコンギスタ」は世界観・モビルスーツのデザインとスタイリング・
モビルスーツの劇中の使い方・モボルスーツと人の関係性の描き方、
これらの描かれ方がカッコイイと思う点で、
「Gのレコンギスタ」はカッコイイロボットアニメだと訴えていきたいと思う。
  
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[ 2015/02/01 09:58 ] Gのレコンギスタ | TB(8) | CM(1)