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「少女革命ウテナ」における七実回の重要性。あるいは緊張と緩和。 

「少女革命ウテナ」の七実回、もしくはギャグ回の重要性について語ってみたい。


私が「少女革命ウテナ」の面白さにのめり込んだのは
16話の「七実のカウベル」から。

16話は七実が良いファッションだと思い、自分の首にカウベルを付ける展開。
そしてカウベルに引っ張られるように七実は牛化し、結局はウテナに倒される。
比喩ではなく七実が牛になってしまうのだから恐れ入る話だ。

「身なりは人を変える」という風刺的な意味合いを突きつけた話。
それ以上に「少女革命ウテナ」は時と場合によっては
キャラクターが牛にもなれる揺るがぬ事実を突きつけた。
ウテナの発想の自由さと飛躍性に強く心を惹かれた。

緊張と緩和、あるいはシリアスとギャグ

ウテナは、キャラクターの感情・内面を鋭く描く。
一方で七実が活躍する「カレーなるハイトリップ」「七実のカウベル」「七実の卵」は
発想の飛躍がすさまじいギャグものだ。
ウテナはシリアスとギャグが混在する作品だ。

落語家、桂枝雀の「緊張と緩和理論」でいえば
ウテナと生徒会メンバーのドラマが「緊張」だとすれば
七実を中心に起こるエピソードは「緩和」なのである。
緊張(シリアス)があるからこそ、緩和(ギャグ)もまた引き立つ。

あるいはビートたけしの振り子理論。
悪いこと(ギャグ)ができれば、良いこと(シリアス)もできる一例。

「少女革命ウテナ」は笑い的にも極めて優れた作品だと思う。
この極めて面白かったのが、私にとって堪えたし、嬉しかった。

ウテナのVHS・LD1巻の映像特典のインタビューで

「面白さそのものの価値を突き詰めたい」

と幾原邦彦監督は語っていたが、この発言の狙いが七実回で結実していると思う。

七実回はウテナ世界を別角度から照射する

七実回は笑い的に面白いだけではなく、ウテナという作品を別角度から照射する。

まず「カレーなるハイトリップ」ではウテナとアンシーの人格が入れ替わるが、
企画段階ではウテナとアンシーは一つの人格・キャラだったことを知ると
二人のポジションが逆になっていた可能性も示唆しているようにも見える。

また「七実のカウベル」。
カウベルを付けて牛になる七実は、男装して王子様を気取るウテナの写鏡。
つまり牛になる七実の滑稽さは、ウテナにも当てはまるともいえる。

「七実の卵」に関しても、本作が「デミアン」を引用していることを踏まえると、
卵の一つのありようと帰結を描いているようにみえる。
(※ここで卵がチュチュのように描かれるのがなんとも…)

以上のようにウテナの七実回、ギャグ回は本筋から独立しているように見えつつも
テーマ的な所や表現的な部分では繋がっている。
むしろ別角度の照射により、作品の奥深さを与えているようにも思える。

まとめ

「少女革命ウテナ」の七実回が見せてくれたのは、
笑い的な面白さを追求しつつ、かつシリーズとして見事に収めてしまう力だった。
ウテナの物語が極めて面白かったのは、シリアスだけではなく
ギャグがアクセントとして効果絶大だったからだ。
 
シリアスとギャグの両方が際立った稀有な作品として、
そのギャグ部分を担った「少女革命ウテナ」の七実回は今でも私の心を離さない。
  
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[ 2016/05/27 22:36 ] 少女革命ウテナ | TB(1) | CM(2)

ドラゴンクエスト30周年ーその思い 

1986年5月27日「ドラゴンクエスト」発売。そして今年で30年が経った。

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子供の時にはドラクエが、ここまで続くことは思わなかった。
大人になっても未だにやり続けるなんて想像もできなかった。

最近はDS版のⅣとⅤをやり直したばかり。
DSのⅤは嫁にしたデボラとの会話が面白いと思いつつ、
今回はいつもは仲間になりやすいホイミスライムが仲間に中々ならず、
中盤の回復役が不足してちょいと苦労した。

ドラクエは面白い。いつやっても飽きない。

そんなドラクエは私にとって何なのか。
まず子供の頃はドラクエが一番の楽しみだった。
クリアしては最初からやり直し、クリアしては最初からやり直し。
あくる日もあくる日もドラクエばかりやっていた。

ⅠやⅡはふっかつのじゅもんを書くのが面倒だったが、
バッテリバックアップができるようになったⅢ以降は
飛躍的に周回プレイする数が多くなった。

なぜドラクエにそんなにハマってしまったのか。
それは父の存在がとても大きい。父は鳥山明がとても好きなのだ。
子供の頃は一緒にアラレちゃんやドラゴンボールのアニメを楽しみ
二人で少年ジャンプを回し読みしていた。
そして今でも父はドラゴンボール超の放送を毎週楽しみに見ている。

父はゲームに必ずしも肯定的ではないのだが、
鳥山明が絵を描いているドラクエは無条件に買ってくれた。
むしろ率先して買ってきてくれた。
ドラクエⅣは徹夜でゲームショップに並び
発売当日に買ってきてくれたのも父だった。

そんな父と一緒にドラクエをやっていた。
よくよく考えると、父とはドラクエを通してコミュニケーションをとっていた。
特にドラクエⅡは、中々攻略できない大灯台を徹夜でクリアを試み、
ロンダルキアへの洞窟にいるメイジバピラスから
レアアイテム「ふしぎなぼうし」をドロップした父に尊敬を抱いたものだ。

ふっかつのじゅもんを間違えずに書き取りできるように教えてくれたのも父。
ロンダルキアへの洞窟の落とし穴の法則やゾーマの城の回転床の法則を
教えてくれたのも父。そんなドラクエを教えてくれた父は立ちはだかる壁でもあった。

ⅠⅡⅢは父に先にクリアされてしまったが、
Ⅳで始めて父より先にゲームをクリアできた時はとても嬉しかった。
またⅣは父の力(助言)を借りずに一人でクリアできた事が何より嬉しかった。
父より先にクリアしたことで、父に勝ったと当時は思えた。
そんなやり取りをしながらドラクエをしていたので、
ドラクエというと父との思い出をまず思い浮かべる。

そしてドラクエの何に惹かれたのか。
面白いのは私にとって間違いないのだが、中々言葉にできなかった。
そして最近、ガルムウォーズに公開に関連して、
押井守さんと虚淵玄さんの対談配信での押井さんの話の中でわかった気がする。
(※奇しくも押井さんもドラクエ好き 今はドラクエビルダーズをやっている)

押井さんは対談で「ファンタジーの役割は、ファンタジーを通して世界を知ること」
というニュアンスで語っていた。この話を聞いて子供で何も知らなかった私は
ドラクエというファンタジーを通して世界が知りたいから、やり続けたのだと気づいた。
私にとってドラクエが世界の縮図であり、その縮図から色々学びたかったのだ。

ドラクエの世界を旅すること。世界の人々と会話し、おつかいして何かを見つけること。
内気ながら擬似的ながら旅することの、外へ向かう面白さを掴みたかったのだ。

特に現実世界に似ている形のドラクエⅢの世界を冒険することは、
まさに世界を旅する事をゲームで追体験できるものであり、
世界を知りたい思いを叶えるものだった。
そんな世界の下にアレフガルドがあるが、
現実世界の奥底には私たちの知らない世界もあるかもしれないという
ファンタジー的な希望も抱かせてくれた。

ドラクエシリーズは、私にとって全てだった。全ての始まりだったと思う。
今のように趣味に取り組むようになったのもドラクエがあったからだろう。
 

ドラクエと出会えて良かった。
ドラクエと出会わなければ、人生ちょいと損していた。
ドラクエがあったから、なんとか生きてこれた。
新作ドラクエやリメイク、DQMシリーズをやるために生きのびてきた。

Ⅺがプレイできる日を待ち遠しく思いつつ、
今日、明日と生きていく。
 
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[ 2016/05/26 19:27 ] ドラゴンクエスト | TB(0) | CM(0)