巴マミさんの死によって
魔法少女の現実を突きつけられます。
今回は気合入れて感想書きました。
それぐらい、今回の内容に感銘しましたと告白します。
死の意味を色々考えさせられる内容でした!!
この作品は目が離せない!!
感想「魔法少女とは何か」を問い続けるまどか☆マギカ。今回はその暗部・真実を見せられた展開だったのかもしれません。
ここまでの展開をやりながら「魔法少女」という言葉のギャップが大きい。
「魔法少女」という言葉に潜んだ暗部を書きたいのか
それとも「魔法少女」を現実の何かに仮託して何かを描きたいのでしょうか。
巴マミさんの死の意外性の理由
まさか、マミさんが死ぬ展開というのは中々に予想できませんでした。予想できない理由はキャラクター造形と物語展開、この二つにあります。
まず一つ目のキャラクター造形の点からですが、まさかうめてんてーのキャラ絵で
ああも悲惨に凄惨にあっけなく死が描かれるという予想が出来ないのでしょう。うめてんてーといえば、
「ひだまり☆スケッチ」。
この作品で「死」「殺される」とは無縁な、ほのぼの・安心・穏やかなイメージを
予め刷り込まれているので、マミの死には意外性を感じてしまうのです。
要は「まさかうめてんてーの絵で人は死なないわな」と思い込まされているという事です。作り手はこの視聴者が思い込んでいる点を上手く突いたと思いました。
逆に言えば「もっとリアルなデザイン」で描かれれば(例えば
フリージングのような絵)、
見ている側もハードな作風だと映って、死の意外性も落ちると思うのです。

二つ目に物語展開においてですが、マミさんが怪しいと前回の感想記事で書きましたが
物語展開の予想を裏切られた意味でのショックももちろん大きいです。この作品はどこにミスリードがあるかわからないとも前回書きましたが、
マミが怪しかったと感じた事がミスリードだったのかもしれません。
でも意外性があって素直に感心して面白いと思ってしまいました。
一ついうと、マミの死にも殆ど同様もせずにピンチに乗じて「今すぐに魔法少女に」と
勧誘し続けるキュウべぇの方がより怪しいと感じるようになりました。
キュウべぇにとって魔法少女は手駒でしかないのでしょうか。
このハードな展開を考え付くのは虚淵玄なのでしょうが、
この展開を容認した新房監督やうめてんてーも体を張っていると思います。特にうめてんてーは自分のイメージが大きく変わってしまう危険性を
冒してしまう点、作品イメージが変わる点でとても体を張っています。
マミさん死亡フラグと負けた原因
でも今回、見ているとマミさんが死んでしまうのは仕方の無い展開でした。なぜなら死亡フラグが貼られまくられていたのですから。
①自分の過去を話す ②戦いが終わったら何かをする、この鉄板のフラグ2本が合わさった事で、死ぬ事を予感させる作りになっています。
興味深かったのはマミさんの自分の弱さをまどかに告白する場面でした。まどかが憧れている
「人助けをするカッコイイマミさん」という虚像とはちがい、
友達がいなかった彼女の内面的な弱さ・孤独さを強調するものでした。
生きるために魔法少女になった彼女ですが、まどかやさやかとであった事で
一人で生きてきたという緊張感から多少解放され、心に隙ができた所を
今回敵にやられてしまったという印象が拭えません。
もちろん、敵の強さを見誤っていた点が最大の原因でしょうが、油断もあった印象です。
魔法少女の過酷さ
マミさんの過去の告白と死の意味は「魔法少女」になる事の過酷さを描いたものでした。
つまり何かを願い叶えたいと思うなら「死」を覚悟しなければいけないという事です。(ハガレンの等価交換と同じようなニュアンスだと思っていただけると助かります)
まどかはマミの人助けを見て単純に憧れ、その憧れを話していましたが、
まどかの発言には「死」という意味を孕んでいない事が白日に晒されました。
結局、何かを叶える事は、別の何かを犠牲にしているわけですし
誰かの願いがかなえば、他の誰かの願いが叶わなくなる。
こうした一種の残酷なゲームの元で魔法少女はあの世界で戦ってるのだと感じました。ただ学生にとってほぼ同年代の子の無残な死は重いと感じます。
特に戦争や貧困などで人が若くして死ににくい日本ではマミさんの死の意味は重い。
前回
「本気で何かを叶えたい事が無い」「不幸でなく幸せバカ」とさやかは言いましたが
魔法少女の世界はこのさやかの甘い考えを壊すものです。

(だからさやかは泣いてしまいます)
おそらくこの作品では画面に映らないだけで多くの魔法少女が死んでいるのでしょうね。
そんな想像が出来てしまうぐらいこの作品の想像力は豊かだなぁと感じました。
願い無き時代・叶えたい事の無い時代に、
それでも叶えたい事・願いはあるか!
もし、この作品がメッセージ性の強い作品であるなら
「魔法少女」という言葉を現実の何かに仮託して
何か発信しているものであと思います。そして私は
「現実で、死を賭けた程、叶えたいものが無い我々の叶えたいものは何か。」この事をまどか☆マギカは説いている様に感じました。
今の日本は経済成長や復興といったわかりやすかった目標はほぼ達成され、
社会全体での目標が見失わつつあると、よく言われます。
こうした現実の中でまどか☆マギカは何を訴えようとしているのでしょうか。
そもそも「魔法少女」は戦後の高度経済成長の中、
発展したマンガ・テレビアニメという文脈の中でが生まれ発展しました。
どんな願いでも叶える為に頑張る「魔法少女」は子供達の夢であり
高度経済成長で頑張る人々の象徴であり願望だったのかもしれません。ただ、経済成長も終わり、バブル経済以降失われた10年といわれるような
社会経済に突入しますと、子供に希望を託せづらくなり、叶えたい願いも無くなり、
願いを叶える「魔法少女」に夢や希望を託せなくなった印象を受けます。そうすると、使い倒された「魔法少女」という言葉は陳腐化され
例えば「大魔法峠」「小麦ちゃん」のようにパロディ化されていきました。
そんな願いの無い・叶えたいものが無い今の時代に
「まどか☆マギカ」は何かを提起しているのではないでしょうか。スタッフがどこまでを狙いに入れているのかわかりませんが、私はそう受け取りました。
今回のマミの件も負け=死という凄惨な世界を象徴しているように思えてしまいます。
まとめ
こんなに話が転がると目が離せなくなりますね!!
素晴らしいです。本当に面白いですなぁこの作品と思ってしまいます。
それにしても、マミの死の不条理感を演出したビジュアルは素晴らしいです。ただ死ぬのではなく不条理にある意味カッコよく死んでいます。
あの異空間の演出が素晴らしすぎます!!
こうしたビジュアル感の見事さが際立っていますね。
この作品はシャフトながらも外部のスタッフを沢山起用している点でも
相当力を入れて制作されている事が伺えます。
今回も絵コンテは芦野芳春さんで、3回連続の登板でした。
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感想「魔法少女とは何か」を問い続けるまどか☆マギカ。今回はその暗部・真実を見せられた展開だったのかもしれません。
ここまでの展開をやりながら「魔法少女」という言葉のギャップが大きい。
「魔法少女」という言葉に潜んだ暗部を書きたいのか
それとも「魔法少女」を現実の何かに仮託して何かを描きたいのでしょうか。
巴マミさんの死の意外性の理由
まさか、マミさんが死ぬ展開というのは中々に予想できませんでした。予想できない理由はキャラクター造形と物語展開、この二つにあります。
まず一つ目のキャラクター造形の点からですが、まさかうめてんてーのキャラ絵で
ああも悲惨に凄惨にあっけなく死が描かれるという予想が出来ないのでしょう。うめてんてーといえば、
「ひだまり☆スケッチ」。
この作品で「死」「殺される」とは無縁な、ほのぼの・安心・穏やかなイメージを
予め刷り込まれているので、マミの死には意外性を感じてしまうのです。
要は「まさかうめてんてーの絵で人は死なないわな」と思い込まされているという事です。作り手はこの視聴者が思い込んでいる点を上手く突いたと思いました。
逆に言えば「もっとリアルなデザイン」で描かれれば(例えば
フリージングのような絵)、
見ている側もハードな作風だと映って、死の意外性も落ちると思うのです。

二つ目に物語展開においてですが、マミさんが怪しいと前回の感想記事で書きましたが
物語展開の予想を裏切られた意味でのショックももちろん大きいです。この作品はどこにミスリードがあるかわからないとも前回書きましたが、
マミが怪しかったと感じた事がミスリードだったのかもしれません。
でも意外性があって素直に感心して面白いと思ってしまいました。
一ついうと、マミの死にも殆ど同様もせずにピンチに乗じて「今すぐに魔法少女に」と
勧誘し続けるキュウべぇの方がより怪しいと感じるようになりました。
キュウべぇにとって魔法少女は手駒でしかないのでしょうか。
このハードな展開を考え付くのは虚淵玄なのでしょうが、
この展開を容認した新房監督やうめてんてーも体を張っていると思います。特にうめてんてーは自分のイメージが大きく変わってしまう危険性を
冒してしまう点、作品イメージが変わる点でとても体を張っています。
マミさん死亡フラグと負けた原因
でも今回、見ているとマミさんが死んでしまうのは仕方の無い展開でした。なぜなら死亡フラグが貼られまくられていたのですから。
①自分の過去を話す ②戦いが終わったら何かをする、この鉄板のフラグ2本が合わさった事で、死ぬ事を予感させる作りになっています。
興味深かったのはマミさんの自分の弱さをまどかに告白する場面でした。まどかが憧れている
「人助けをするカッコイイマミさん」という虚像とはちがい、
友達がいなかった彼女の内面的な弱さ・孤独さを強調するものでした。
生きるために魔法少女になった彼女ですが、まどかやさやかとであった事で
一人で生きてきたという緊張感から多少解放され、心に隙ができた所を
今回敵にやられてしまったという印象が拭えません。
もちろん、敵の強さを見誤っていた点が最大の原因でしょうが、油断もあった印象です。
魔法少女の過酷さ
マミさんの過去の告白と死の意味は「魔法少女」になる事の過酷さを描いたものでした。
つまり何かを願い叶えたいと思うなら「死」を覚悟しなければいけないという事です。(ハガレンの等価交換と同じようなニュアンスだと思っていただけると助かります)
まどかはマミの人助けを見て単純に憧れ、その憧れを話していましたが、
まどかの発言には「死」という意味を孕んでいない事が白日に晒されました。
結局、何かを叶える事は、別の何かを犠牲にしているわけですし
誰かの願いがかなえば、他の誰かの願いが叶わなくなる。
こうした一種の残酷なゲームの元で魔法少女はあの世界で戦ってるのだと感じました。ただ学生にとってほぼ同年代の子の無残な死は重いと感じます。
特に戦争や貧困などで人が若くして死ににくい日本ではマミさんの死の意味は重い。
前回
「本気で何かを叶えたい事が無い」「不幸でなく幸せバカ」とさやかは言いましたが
魔法少女の世界はこのさやかの甘い考えを壊すものです。

(だからさやかは泣いてしまいます)
おそらくこの作品では画面に映らないだけで多くの魔法少女が死んでいるのでしょうね。
そんな想像が出来てしまうぐらいこの作品の想像力は豊かだなぁと感じました。
願い無き時代・叶えたい事の無い時代に、
それでも叶えたい事・願いはあるか!
もし、この作品がメッセージ性の強い作品であるなら
「魔法少女」という言葉を現実の何かに仮託して
何か発信しているものであと思います。そして私は
「現実で、死を賭けた程、叶えたいものが無い我々の叶えたいものは何か。」この事をまどか☆マギカは説いている様に感じました。
今の日本は経済成長や復興といったわかりやすかった目標はほぼ達成され、
社会全体での目標が見失わつつあると、よく言われます。
こうした現実の中でまどか☆マギカは何を訴えようとしているのでしょうか。
そもそも「魔法少女」は戦後の高度経済成長の中、
発展したマンガ・テレビアニメという文脈の中でが生まれ発展しました。
どんな願いでも叶える為に頑張る「魔法少女」は子供達の夢であり
高度経済成長で頑張る人々の象徴であり願望だったのかもしれません。ただ、経済成長も終わり、バブル経済以降失われた10年といわれるような
社会経済に突入しますと、子供に希望を託せづらくなり、叶えたい願いも無くなり、
願いを叶える「魔法少女」に夢や希望を託せなくなった印象を受けます。そうすると、使い倒された「魔法少女」という言葉は陳腐化され
例えば「大魔法峠」「小麦ちゃん」のようにパロディ化されていきました。
そんな願いの無い・叶えたいものが無い今の時代に
「まどか☆マギカ」は何かを提起しているのではないでしょうか。スタッフがどこまでを狙いに入れているのかわかりませんが、私はそう受け取りました。
今回のマミの件も負け=死という凄惨な世界を象徴しているように思えてしまいます。
まとめ
こんなに話が転がると目が離せなくなりますね!!
素晴らしいです。本当に面白いですなぁこの作品と思ってしまいます。
それにしても、マミの死の不条理感を演出したビジュアルは素晴らしいです。ただ死ぬのではなく不条理にある意味カッコよく死んでいます。
あの異空間の演出が素晴らしすぎます!!
こうしたビジュアル感の見事さが際立っていますね。
この作品はシャフトながらも外部のスタッフを沢山起用している点でも
相当力を入れて制作されている事が伺えます。
今回も絵コンテは芦野芳春さんで、3回連続の登板でした。
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無茶やるなぁという感じですが、どういう化学反応が起こるのか楽しみではあります。