二つの勢力の狭間でクレインは何を考え、
どう行動するのでしょうか。
このシーンで、クレインはフリュネの胸を
掴んでしまえと思ってしまいました。
躍動感あるアクションの連続。作画の楽しみがあった4話です。
そしてクレインはいよいよ旅立ち始めるようです
感想クレインの本当の旅立ちといったところでしょうか。システムに依存するもの 抗うもの 答えは?
今回でフラクタルシステムに依存するものとしての僧院。
このシステムに抗うものとして、グラニッツ一家。
今後は「旅立ち」というサブタイトルからしても
両者の立場の戦い・相克を通して、フラクタルシステムが描かれていきそうです。おそらく私の中ではこの作品は
「社会を幸せにするシステムとは何か」という題材を扱っていると思っています。
その為の一処方箋としてこの作品には「フラクタルシステム」があるのでしょうが、
どうもそれは胡散臭いというのが3話4話までに描かれました。

おそらく、
作品の答えは僧院側にもグラニッツ側にも無いような気がします。
というのは僧院側はすで3話4話の描写から可能性として考えると薄い。
逆にグラニッツ一家の
自然と共生する牧歌主義的な態度は一見
フラクタルシステムのアンチテーゼとはなりえます。
ただ、今の日本の現状も射程に入れて結論を出すであろう本作を考えると
グラニッツ一家の牧歌的な姿は今の現実性にそぐわない点もあります。
(ああした3話で見せられた牧歌的な姿に日本は戻れないだろうから)
だからグラニッツ一家的なものの有り様だけでは
作品としてのメッセージが現実的に有効なのかに疑問がもたれます。
では現状、誰が答えを持っているのか。おそらくクレインが持っているのでしょう。主人公だからなのですが、、彼はフラクタルシステムの懐疑的な点を見たこと。
一方でグラニッツ側に身を置いているとはいえ、彼らに納得しているわけではない。
両者の狭間にいる、彼こそが世界を俯瞰的に見渡せる可能性があるといえます。
ただクレインは今は状況に流されていた存在です。為されるがままです。

そんな彼が、今回フリュネを助けようとした時は、明確な意思が発揮されていました。
クレインがフリュネの二輪車に飛び移ろうとしたシーンでクレインが慌てふためく様は
まるでここもジブリ作品のような躍動感を見せていましたね。
まぁクレインも人の死を見て、自分も動かなければいけないと思ったのでしょうか。
何にしても彼が成長した瞬間を見せた場面でした。
クレインの内向性
正直な所、クレインは内向的な性格です。そして本作は冒険活劇を謳った作品です。
今回までだと、冒険活劇的な少年の純粋な未知への探究心・好奇心・冒険心を刺激する
内容とはちょっと違う展開で物語は進んでいます。
一方で、上述したように
「システムの是非」そのものを描いていて
「冒険活劇」「システム」の話がどうもクレインの内向性に集約されています。
つまり活劇らしい活劇感がどうしても出てこないのですよね。

宮崎駿がCutで「借り暮らしのアリエッティ」公開時に受けたインタビューでは
「(少なくとも宮崎自身は)今の時代に少年を主人公にした冒険活劇は描けない。
それは少年が不幸になるだけだから」という発言をしていました。
確かに少年が純粋に夢を見るには、今の日本はちょっとという部分があります。
冒険活劇の大御所からこう言われると、説得力があるのですが
正直フラクタルを見ていると「冒険活劇」ものを今の時代に行う難しさが
滲み出ています。ただ、そこに純粋に挑戦しようとするヤマカン。私はこの作品がどう過程を描くのかに期待したいですね。
好きが好き 好きが嫌い
ネッサが言っていた「好きが好き」。
フリュネっが言っていた「好きが嫌い」。
今回、一番印象的な台詞でした。すごく岡田磨里さんらしい台詞です。


この台詞にネッサの屈託の無さ、純粋性。
またはフリュネの好きを好きと表明する事の難しさや生き辛さを感じました。
そして二人はお互いを苦手とするように、二人は対照的なキャラなのでしょう。
だからといって、二人の本質は違わない。むしろ同じであると思いました。
ただ表現の発露が違うだけなのでしょうね。
ドッペルと電脳コイル
先週で気づくべきでしたが、メガネの有無で判別できる
ドッペルは
「電脳コイル」にも出てきた電脳ペットに近い設定なのかもしれません。
電脳コイルでいえば「デンスケ」みたいな。

このシーンでやっと気づきました。
まとめ
最後に。今回はとっても作画がよかったです。
足立慎吾:絵コンテ・演出という事もあり、原画に若手の動かし屋が多数参加という感じです。
上述のクレインがフリュネのバイクに飛び移るシーンや
煙や爆破などの様々なアクションシーンがとても良かったですね。
今後はどうなっていくのでしょうかねぇ。
- 関連記事
-
感想クレインの本当の旅立ちといったところでしょうか。システムに依存するもの 抗うもの 答えは?
今回でフラクタルシステムに依存するものとしての僧院。
このシステムに抗うものとして、グラニッツ一家。
今後は「旅立ち」というサブタイトルからしても
両者の立場の戦い・相克を通して、フラクタルシステムが描かれていきそうです。おそらく私の中ではこの作品は
「社会を幸せにするシステムとは何か」という題材を扱っていると思っています。
その為の一処方箋としてこの作品には「フラクタルシステム」があるのでしょうが、
どうもそれは胡散臭いというのが3話4話までに描かれました。

おそらく、
作品の答えは僧院側にもグラニッツ側にも無いような気がします。
というのは僧院側はすで3話4話の描写から可能性として考えると薄い。
逆にグラニッツ一家の
自然と共生する牧歌主義的な態度は一見
フラクタルシステムのアンチテーゼとはなりえます。
ただ、今の日本の現状も射程に入れて結論を出すであろう本作を考えると
グラニッツ一家の牧歌的な姿は今の現実性にそぐわない点もあります。
(ああした3話で見せられた牧歌的な姿に日本は戻れないだろうから)
だからグラニッツ一家的なものの有り様だけでは
作品としてのメッセージが現実的に有効なのかに疑問がもたれます。
では現状、誰が答えを持っているのか。おそらくクレインが持っているのでしょう。主人公だからなのですが、、彼はフラクタルシステムの懐疑的な点を見たこと。
一方でグラニッツ側に身を置いているとはいえ、彼らに納得しているわけではない。
両者の狭間にいる、彼こそが世界を俯瞰的に見渡せる可能性があるといえます。
ただクレインは今は状況に流されていた存在です。為されるがままです。

そんな彼が、今回フリュネを助けようとした時は、明確な意思が発揮されていました。
クレインがフリュネの二輪車に飛び移ろうとしたシーンでクレインが慌てふためく様は
まるでここもジブリ作品のような躍動感を見せていましたね。
まぁクレインも人の死を見て、自分も動かなければいけないと思ったのでしょうか。
何にしても彼が成長した瞬間を見せた場面でした。
クレインの内向性
正直な所、クレインは内向的な性格です。そして本作は冒険活劇を謳った作品です。
今回までだと、冒険活劇的な少年の純粋な未知への探究心・好奇心・冒険心を刺激する
内容とはちょっと違う展開で物語は進んでいます。
一方で、上述したように
「システムの是非」そのものを描いていて
「冒険活劇」「システム」の話がどうもクレインの内向性に集約されています。
つまり活劇らしい活劇感がどうしても出てこないのですよね。

宮崎駿がCutで「借り暮らしのアリエッティ」公開時に受けたインタビューでは
「(少なくとも宮崎自身は)今の時代に少年を主人公にした冒険活劇は描けない。
それは少年が不幸になるだけだから」という発言をしていました。
確かに少年が純粋に夢を見るには、今の日本はちょっとという部分があります。
冒険活劇の大御所からこう言われると、説得力があるのですが
正直フラクタルを見ていると「冒険活劇」ものを今の時代に行う難しさが
滲み出ています。ただ、そこに純粋に挑戦しようとするヤマカン。私はこの作品がどう過程を描くのかに期待したいですね。
好きが好き 好きが嫌い
ネッサが言っていた「好きが好き」。
フリュネっが言っていた「好きが嫌い」。
今回、一番印象的な台詞でした。すごく岡田磨里さんらしい台詞です。


この台詞にネッサの屈託の無さ、純粋性。
またはフリュネの好きを好きと表明する事の難しさや生き辛さを感じました。
そして二人はお互いを苦手とするように、二人は対照的なキャラなのでしょう。
だからといって、二人の本質は違わない。むしろ同じであると思いました。
ただ表現の発露が違うだけなのでしょうね。
ドッペルと電脳コイル
先週で気づくべきでしたが、メガネの有無で判別できる
ドッペルは
「電脳コイル」にも出てきた電脳ペットに近い設定なのかもしれません。
電脳コイルでいえば「デンスケ」みたいな。

このシーンでやっと気づきました。
まとめ
最後に。今回はとっても作画がよかったです。
足立慎吾:絵コンテ・演出という事もあり、原画に若手の動かし屋が多数参加という感じです。
上述のクレインがフリュネのバイクに飛び移るシーンや
煙や爆破などの様々なアクションシーンがとても良かったですね。
今後はどうなっていくのでしょうかねぇ。
- 関連記事
-
>という題材を扱っていると思っています。
通りすがりですが、本作品のコアとなるアイデアを見抜いたレビューとお見受けしましたので、コメントさせていただきます。
原案の東浩紀は、近代の監獄や病院といった監視社会から現代の住宅街の監視カメラに代表される新たな情報監視社会に移行しつつあるように思われると考えている。
そこで我々人間の現代の自由とは何か、それは正しいのか、どういう方向に向かっていくのかを問うています。
そういった考察からでてきたのが本作品のフラクタル・システムとそれとの対処勢力という構図なのでしょう。
アニメ作品が東ひとりのものではなく、多数のアニメーター達によって形作られているのはもちろんのことで、アクションや萌えといった要素も多数見受けられ、それはそれで楽しめるモノではあります。
が、このテーマは重要です。
作品中で貴方の言われる「システム」の回答はおそらくなされないでしょう。
このテーマ性ゆえに、視聴者に様々な考察をうながす作品となると思われます(今のところは)。
個人的にはジブリ風のキャラ造形やアクションはあまり好みではなく、時折辟易とさせられるのですが、最後まで見ることになるでしょう。
見終わった後、どんな感想がわき起こるか?
そのときまた訪問し、貴方の感想を楽しみにさせてもらいます。
参考:
東浩紀「情報自由論」
http://www.hajou.org/infoliberalism/