男の涙がこれほど綺麗に
描かれた描写があったでしょうか。
つるこに「腐ってる」と言われても
ゆきあつの涙は本物です。私は顔に男の涙をかけられた事が無いのですが、
実際やられるとどうなのでしょうかね。
今回はこの作品のリアリティについて書きました。
感想リアルとフィクションのはざまに存在するめんま
この作品の特徴の一つは、実在する商品や固有名詞がきちんと出てくる事です。
今回はガリガリ君やポッキーなどといった、お菓子が多数登場し、
「Hey say jump」のヤマちゃんみたいだと言うあなるちゃんの台詞も飛び出すなど
こうした言葉や描写が物語・作品にリアリティを提供します。

(ペプシとなっちゃんは許諾が取れなかったのでしょうか、
描かれ方がそこまでリアルではありません)
ここまでは、前の感想でも同様の事を書きましたが、
この作品はこうしたとてもリアリティを重視した描写がたくさん見られます。
キャラクターがアニメ的な突拍子の無い動きや芝居を行う事はありませんし、
漫画で使われる、記号的描写を行う事もありません。
極めて、真っ当にアニメでできる範囲でリアリティある描写を積み重ねています。
しかしながらリアルな描写を積み重ねた中に、この作品には一つのウソがあります。
それはめんまの存在です。彼女の存在だけが、極めてリアリティが高いこの作品において、
一つの大きなウソ、フィクション性=虚構の存在です。
つまりリアルとフィクションのはざまにいる存在なのです。

(こんなにハッキリ見えるのに、この作品では見えない存在のめんま。)
そして我々からは、めんまは画面に見えています。
でもじんたん以外のキャラはめんまの存在を認識する事ができない。
このギャップこそがフィクション性を担保するのです。
言い換えれば、同じ画面にいながら、ぽっぽはめんまが見えず、
画面の外の世界にいる我々がめんまを認識できる。
この悲劇こそ、この作品の魅力だと思うのです。
何が言いたいのかといえば、めんまの設定を生かすために
この作品を彩る他の全ての構成要素、
シナリオ・作画・美術・背景・演出の諸要素を基本リアルをもって描く事によって
めんまのフィクション性を表現したいって事です。
言い換えれば、この作品はめんまという一つのウソを効果的に見せる為に
他の全てをリアリティある描写にしているって事です。
徹底的に個々の描写のリアリティを上げる事で、
一つのウソ(めんま)が効果的に生きるのです。
こうした手法は。すべてを人の手で描かないと映し出されない
アニメならではの表現であり魅力だと思うのです。
まとめ この作品における「あなる」の存在意義
今回も、あなるちゃんが可愛すぎます。
少女の純情感っていうのをこれほどまでに見せてくれるキャラは中々いません。
まぁ「黒いんだろ」「お前、処女だろう?」とか、いろいろ言われまくりですが、
「あなる」という名前である以上、汚れを背負うのは宿命なのでしょうね。

(ガラス越しにも見える表情が素晴らしい)
めんまが妖精のような非現実な存在であるのに対して
あなるはどこまでも、現実にいそうなキャラとして描かれます。
さらにこの二人を俯瞰する存在としてつるこがいます。
この三者三様の描写が面白いですね。

(つるこさんに焦点をあてた回が巡ってくるか?)
また、思春期と性の関係は切っても切り離せませんが、
あなるはこの作品における思春期と性を担わされるキャラなのかもしれません。
脚本の岡田磨里さんが「あなる」というネームに拘ったのは、
思春期の少女を新しい切り口で描きたかったかもしれません。
その意味でも「あなる」という名前はただのネタではなく
この作品そのもののテーマだと思っています。
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感想リアルとフィクションのはざまに存在するめんま
この作品の特徴の一つは、実在する商品や固有名詞がきちんと出てくる事です。
今回はガリガリ君やポッキーなどといった、お菓子が多数登場し、
「Hey say jump」のヤマちゃんみたいだと言うあなるちゃんの台詞も飛び出すなど
こうした言葉や描写が物語・作品にリアリティを提供します。

(ペプシとなっちゃんは許諾が取れなかったのでしょうか、
描かれ方がそこまでリアルではありません)
ここまでは、前の感想でも同様の事を書きましたが、
この作品はこうしたとてもリアリティを重視した描写がたくさん見られます。
キャラクターがアニメ的な突拍子の無い動きや芝居を行う事はありませんし、
漫画で使われる、記号的描写を行う事もありません。
極めて、真っ当にアニメでできる範囲でリアリティある描写を積み重ねています。
しかしながらリアルな描写を積み重ねた中に、この作品には一つのウソがあります。
それはめんまの存在です。彼女の存在だけが、極めてリアリティが高いこの作品において、
一つの大きなウソ、フィクション性=虚構の存在です。
つまりリアルとフィクションのはざまにいる存在なのです。

(こんなにハッキリ見えるのに、この作品では見えない存在のめんま。)
そして我々からは、めんまは画面に見えています。
でもじんたん以外のキャラはめんまの存在を認識する事ができない。
このギャップこそがフィクション性を担保するのです。
言い換えれば、同じ画面にいながら、ぽっぽはめんまが見えず、
画面の外の世界にいる我々がめんまを認識できる。
この悲劇こそ、この作品の魅力だと思うのです。
何が言いたいのかといえば、めんまの設定を生かすために
この作品を彩る他の全ての構成要素、
シナリオ・作画・美術・背景・演出の諸要素を基本リアルをもって描く事によって
めんまのフィクション性を表現したいって事です。
言い換えれば、この作品はめんまという一つのウソを効果的に見せる為に
他の全てをリアリティある描写にしているって事です。
徹底的に個々の描写のリアリティを上げる事で、
一つのウソ(めんま)が効果的に生きるのです。
こうした手法は。すべてを人の手で描かないと映し出されない
アニメならではの表現であり魅力だと思うのです。
まとめ この作品における「あなる」の存在意義
今回も、あなるちゃんが可愛すぎます。
少女の純情感っていうのをこれほどまでに見せてくれるキャラは中々いません。
まぁ「黒いんだろ」「お前、処女だろう?」とか、いろいろ言われまくりですが、
「あなる」という名前である以上、汚れを背負うのは宿命なのでしょうね。

(ガラス越しにも見える表情が素晴らしい)
めんまが妖精のような非現実な存在であるのに対して
あなるはどこまでも、現実にいそうなキャラとして描かれます。
さらにこの二人を俯瞰する存在としてつるこがいます。
この三者三様の描写が面白いですね。

(つるこさんに焦点をあてた回が巡ってくるか?)
また、思春期と性の関係は切っても切り離せませんが、
あなるはこの作品における思春期と性を担わされるキャラなのかもしれません。
脚本の岡田磨里さんが「あなる」というネームに拘ったのは、
思春期の少女を新しい切り口で描きたかったかもしれません。
その意味でも「あなる」という名前はただのネタではなく
この作品そのもののテーマだと思っています。
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