遂に崩壊した高倉家。
果たして高倉家の「家族再生」はあるのか?
ただ単に家族が一緒になる再生では無く、
どういった形で再生されるのか?
はたまた再生されないのか?
「輪るピングドラム」はこの時点で
私の中ではかけがえの無い作品です。
毎回、心を抉られています。
感想高倉家崩壊
今回は高倉家崩壊のプロセスが描かれます。
ギリギリところで崩壊を食い止めていたものがついに決壊したという感じです。

(モブがピクトグラム化されずに描かれているのが興味深い。
記者がピクトグラム化されていない為に、そこに合わせた描写ともいえます)
雑誌の記者の取材を受ける荻野目苹果。
ここで彼女は改めて、晶馬から聞かされたことを照合して知ったようです。
この記者は晶馬にも取材を試み、晶馬に全容を伝えます。

お互い違う方向を向く、冠葉と晶馬。向く向きでで両者の方向性は違うものであると描かれます。
ここで晶馬は冠葉にKIGAの残党から金をもらう事を糾弾しますが
冠葉は意に介さず・・・晶馬はケンカを仕掛けてきます。


でも冠葉に晶馬を止める事はできず・・・冠葉は一人闇の中へ去っていきます。
冠葉の中には陽毬を助ける事以外、全てを捨てているようです。
冠葉と昌馬は、同じ日に生まれた他人。

一方で全てを知った陽毬は真砂子と会います。後述しますが、記憶を取り戻した事、
さらに冠葉が金を受け取る店の真実を知った事で陽毬はついに決心したのでしょう。
ここでは、冠葉と晶馬とは違い、お互い向き合って話している点に
現状での陽毬と真砂子の利害の一致が見られます。
でもこの二人をもってしても冠葉は止められるかどうか・・・。

冠葉と晶馬の決別は、晶馬に高倉家の家族ごっこを終わらせる契機になりました。
この家族解消を陽毬に告げ、別れようと言います。
陽毬もあっさり受け入れますが、陽毬にも独自の目的が出来た以上、
今は高倉家を出る決心ができたのでしょう。

そんな陽毬の目的は冠葉を止める事です。
今回わかった事
サネトシさんが開いているラジオでは色々な事がわかりました。

サネトシはあの事件の首謀者。16年前に桃果に阻止され死亡(もしくは消えた存在)
再び、色んな手段で事件の再現というか、計画を実行しているようです。
(KIGAのグループと一緒に南極にも行っていたようです)

Cパートでわかった、冠葉と真砂子の両親の死。
高倉両親の死についての演出
今回驚きだったのは、高倉両親が死んでいた事でした。
18話で冠葉が多蕗にずっと隠していた本当の意味はこの事でした。
冠葉は隠し通していたために、その後に3人で会っているかのような
描写がここ2回続いていたので、生きていたような印象を受けてしまいました。
でも、今回はハッキリと「生きている」方がおかしいと思わせる演出でした。

高倉両親と冠葉が喋っているかのようなシーンを見せておいて

KIGAの残党から金を受け取り、

二人だけで出て行きます。疑問点としてこの時点で高倉両親はどこへ行ったと思わせます。
さらに店の電気は消えている。なおさら二人はどこに行ったのかがわかりません。

そんな中、店に入って陽毬が何かを見たようです。
答えはここでは明かされませんが、ポイントは店の内装がボロボロな事。
つまり高倉親子での会話シーンの内装とは違うって事です。

そして多蕗も辿り着いた高倉剣山の居所。やはり電気はついていません。
中に入って多蕗が見たものは、

「K.高倉」とネームが付いたスーツの白骨。その奥にはセーターを着た白骨。
衣装から見るに、高倉両親の白骨でしょう。
陽毬も店の中で見て驚いたのは、間違いなくこの白骨でしょう。

(ゆりさんも復讐は終わっていたと言いますが、この後悲劇が・・・)
つまり高倉両親は死んでいたわけです(いつ死んだかは不明ですが)。
死んでいたとすれば、冠葉と両親の会話は何だったのか。
推察ですが、この会話シーンは冠葉の主観的なイメージだったのでしょうね。
冠葉がKIGAの残党から金を受け取りにあの店に行く時に
冠葉は両親と心の中での会話をしていたイメージを我々が見せられていたわけです。
またよくよく聞くと、冠葉と両親の会話も会話というより、両親の一方的な語りかけ。
しかも両親の語る内容はほぼ同じという事もあり、
おそらく冠葉があの店に行くと、両親の声を聞けるような感覚に陥っていたのでしょう。
さらに序盤ぐらいの回想であった、高倉母が受けた深い傷も
この店での登場シーンの時には描かれていない。つまり幻影だったわけです。
でも大事なのは、この両親の言葉が今でも冠葉の支えになっている事です。
それにしても、この両親が生きているかのように
錯覚させた演出の巧みさに舌を巻くばかりです。
過去の総括としての、多用される回想シーンの是非。
今回、これまた気になったのが回想シーンの多用についてです。

電車の電光掲示板から回想シーンに入る演出はこの作品特有ですね。
シリーズ通してもいえますが、今回はとにかく回想が多い。
構成的に見ても、ED曲以降のCパートも回想シーンだったので、
作り手側も意識して今回は回想シーンを使っていると考えられます。
この回想シーンの是非については色々あると思います。
ポイントなのは幾原監督がこの作品を語る時に
度々用いている「過去の総括」という言葉です。
例えば、季刊エスという雑誌での幾原監督のインタビューで察せられるのは
「過去を総括しないと前に進めない」という必要性を大いに感じていることです。
つまりこの作品では、回想シーンを多用で過去の総括を試みているのではないでしょうか。
一方で「過去の総括」という意味では、何度も過去の感想記事でも記述していますが
昭和時代の名優・芸能人の名前を引用したキャラクター名。
村上春樹やサリン事件、阪神大震災、透明な存在など、
リアルで起こった事ををモチーフにした設定。
ARBの曲のカヴァーなどなど、昭和の80年代から現代の平成にかけての
モチーフや引用に溢れかえった作品だといえます。

また、モチーフや引用でいうと、今回の高倉両親の白骨死体の描写も
「少女革命ウテナ劇場版」に出てきた影絵少女をモチーフにしている印象です。
最初は影絵だった少女も、最後の最後で服を着たホウキでできた人形。
要は自分の作品までも過去の総括として引用しているともいえるのです。
こうした引用的な設定やモチーフからも「過去の総括」を試みたい
幾原監督の心意気を感じますし、そもそも使われているモチーフが
幾原さんにとって「過去の総括」をするにあたって大事だと思われるものを
幾原さんの主観で決めていったのではないでしょうか。
また、この回想シーンも多用も、桃果の言う
「電車を乗り換えるように運命を乗り換える」事が可能なら
回想シーンも電車に乗り換えるように簡単でよいのではないか。
だから電車の電光掲示板の描写と本編中に徹底される電車的な描写を使えば
回想シーンをどんどん取り入れても良いのではないか、なんてことも推察できます。
では「過去の総括」がこの「輪るピングドラム」でできるのか。
そこは今後のお楽しみですが、一つ言えるとしたなら
「過去を総括無しには、前には進めない」って事に共感できるかできないか。
私はここに共感できるので、この作品を見ています。
未来を生きる想像力を手に入れるには、全てではありませんが過去の総括も必要だと思います。
まとめ
本当にこの作品は音楽の使いどころが素晴らしい。後半の怒涛の展開に、一連の楽曲の素晴らしさが際立ちます。
物語的には、OP通り、今回で3人が進む道が決定的に分かれた印象です。

冠葉は陽毬を助ける為にあらゆる手段を使い、
陽毬は冠葉を止める為に冠葉と組織に接触する。
晶馬は家族ごっこを解消して、未だに迷っている状況に見えます。
果たして、3人が再び家族に戻れるか。再生できるか。
私の中ではただ高倉家に3人が戻って暮らすのが、再生ではないと考えてしまいます。
ここまで怒涛の展開ですと、尚更元の鞘に収まる展開が思いつかないのもあります。
よって、3人がどういう意思を持って生きていくか、死んでいくか。
ここに「家族」の有り方が問われるような気がします。
一緒にいるだけが家族ではない、血の関係だけが家族では無い事を
「輪るピングドラム」では問うていくのか。
はっきりわかるのは幾原さんは常々
「作品を通して未来を生きるモチべ―ションを問うていきたい」と答える人ですから、
展開の結果としては悲劇的な内容になるかもしれませんが、伝えたいものは
未来に生き抜くキッカケを与えてくれるものになるのではないかと確信しています。人間社会のミニマム単位であり、最も大事なものである「家族」。
この作品も残り少なくなりましたが、あと残り数回と、
その過程で描かれる「家族」の有りようを見守っていきたいと思います。
輪るピングドラムは人の心を抉る作品です!
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感想高倉家崩壊
今回は高倉家崩壊のプロセスが描かれます。
ギリギリところで崩壊を食い止めていたものがついに決壊したという感じです。

(モブがピクトグラム化されずに描かれているのが興味深い。
記者がピクトグラム化されていない為に、そこに合わせた描写ともいえます)
雑誌の記者の取材を受ける荻野目苹果。
ここで彼女は改めて、晶馬から聞かされたことを照合して知ったようです。
この記者は晶馬にも取材を試み、晶馬に全容を伝えます。

お互い違う方向を向く、冠葉と晶馬。向く向きでで両者の方向性は違うものであると描かれます。
ここで晶馬は冠葉にKIGAの残党から金をもらう事を糾弾しますが
冠葉は意に介さず・・・晶馬はケンカを仕掛けてきます。


でも冠葉に晶馬を止める事はできず・・・冠葉は一人闇の中へ去っていきます。
冠葉の中には陽毬を助ける事以外、全てを捨てているようです。
冠葉と昌馬は、同じ日に生まれた他人。

一方で全てを知った陽毬は真砂子と会います。後述しますが、記憶を取り戻した事、
さらに冠葉が金を受け取る店の真実を知った事で陽毬はついに決心したのでしょう。
ここでは、冠葉と晶馬とは違い、お互い向き合って話している点に
現状での陽毬と真砂子の利害の一致が見られます。
でもこの二人をもってしても冠葉は止められるかどうか・・・。

冠葉と晶馬の決別は、晶馬に高倉家の家族ごっこを終わらせる契機になりました。
この家族解消を陽毬に告げ、別れようと言います。
陽毬もあっさり受け入れますが、陽毬にも独自の目的が出来た以上、
今は高倉家を出る決心ができたのでしょう。

そんな陽毬の目的は冠葉を止める事です。
今回わかった事
サネトシさんが開いているラジオでは色々な事がわかりました。

サネトシはあの事件の首謀者。16年前に桃果に阻止され死亡(もしくは消えた存在)
再び、色んな手段で事件の再現というか、計画を実行しているようです。
(KIGAのグループと一緒に南極にも行っていたようです)

Cパートでわかった、冠葉と真砂子の両親の死。
高倉両親の死についての演出
今回驚きだったのは、高倉両親が死んでいた事でした。
18話で冠葉が多蕗にずっと隠していた本当の意味はこの事でした。
冠葉は隠し通していたために、その後に3人で会っているかのような
描写がここ2回続いていたので、生きていたような印象を受けてしまいました。
でも、今回はハッキリと「生きている」方がおかしいと思わせる演出でした。

高倉両親と冠葉が喋っているかのようなシーンを見せておいて

KIGAの残党から金を受け取り、

二人だけで出て行きます。疑問点としてこの時点で高倉両親はどこへ行ったと思わせます。
さらに店の電気は消えている。なおさら二人はどこに行ったのかがわかりません。

そんな中、店に入って陽毬が何かを見たようです。
答えはここでは明かされませんが、ポイントは店の内装がボロボロな事。
つまり高倉親子での会話シーンの内装とは違うって事です。

そして多蕗も辿り着いた高倉剣山の居所。やはり電気はついていません。
中に入って多蕗が見たものは、

「K.高倉」とネームが付いたスーツの白骨。その奥にはセーターを着た白骨。
衣装から見るに、高倉両親の白骨でしょう。
陽毬も店の中で見て驚いたのは、間違いなくこの白骨でしょう。

(ゆりさんも復讐は終わっていたと言いますが、この後悲劇が・・・)
つまり高倉両親は死んでいたわけです(いつ死んだかは不明ですが)。
死んでいたとすれば、冠葉と両親の会話は何だったのか。
推察ですが、この会話シーンは冠葉の主観的なイメージだったのでしょうね。
冠葉がKIGAの残党から金を受け取りにあの店に行く時に
冠葉は両親と心の中での会話をしていたイメージを我々が見せられていたわけです。
またよくよく聞くと、冠葉と両親の会話も会話というより、両親の一方的な語りかけ。
しかも両親の語る内容はほぼ同じという事もあり、
おそらく冠葉があの店に行くと、両親の声を聞けるような感覚に陥っていたのでしょう。
さらに序盤ぐらいの回想であった、高倉母が受けた深い傷も
この店での登場シーンの時には描かれていない。つまり幻影だったわけです。
でも大事なのは、この両親の言葉が今でも冠葉の支えになっている事です。
それにしても、この両親が生きているかのように
錯覚させた演出の巧みさに舌を巻くばかりです。
過去の総括としての、多用される回想シーンの是非。
今回、これまた気になったのが回想シーンの多用についてです。

電車の電光掲示板から回想シーンに入る演出はこの作品特有ですね。
シリーズ通してもいえますが、今回はとにかく回想が多い。
構成的に見ても、ED曲以降のCパートも回想シーンだったので、
作り手側も意識して今回は回想シーンを使っていると考えられます。
この回想シーンの是非については色々あると思います。
ポイントなのは幾原監督がこの作品を語る時に
度々用いている「過去の総括」という言葉です。
例えば、季刊エスという雑誌での幾原監督のインタビューで察せられるのは
「過去を総括しないと前に進めない」という必要性を大いに感じていることです。
つまりこの作品では、回想シーンを多用で過去の総括を試みているのではないでしょうか。
一方で「過去の総括」という意味では、何度も過去の感想記事でも記述していますが
昭和時代の名優・芸能人の名前を引用したキャラクター名。
村上春樹やサリン事件、阪神大震災、透明な存在など、
リアルで起こった事ををモチーフにした設定。
ARBの曲のカヴァーなどなど、昭和の80年代から現代の平成にかけての
モチーフや引用に溢れかえった作品だといえます。

また、モチーフや引用でいうと、今回の高倉両親の白骨死体の描写も
「少女革命ウテナ劇場版」に出てきた影絵少女をモチーフにしている印象です。
最初は影絵だった少女も、最後の最後で服を着たホウキでできた人形。
要は自分の作品までも過去の総括として引用しているともいえるのです。
こうした引用的な設定やモチーフからも「過去の総括」を試みたい
幾原監督の心意気を感じますし、そもそも使われているモチーフが
幾原さんにとって「過去の総括」をするにあたって大事だと思われるものを
幾原さんの主観で決めていったのではないでしょうか。
また、この回想シーンも多用も、桃果の言う
「電車を乗り換えるように運命を乗り換える」事が可能なら
回想シーンも電車に乗り換えるように簡単でよいのではないか。
だから電車の電光掲示板の描写と本編中に徹底される電車的な描写を使えば
回想シーンをどんどん取り入れても良いのではないか、なんてことも推察できます。
では「過去の総括」がこの「輪るピングドラム」でできるのか。
そこは今後のお楽しみですが、一つ言えるとしたなら
「過去を総括無しには、前には進めない」って事に共感できるかできないか。
私はここに共感できるので、この作品を見ています。
未来を生きる想像力を手に入れるには、全てではありませんが過去の総括も必要だと思います。
まとめ
本当にこの作品は音楽の使いどころが素晴らしい。後半の怒涛の展開に、一連の楽曲の素晴らしさが際立ちます。
物語的には、OP通り、今回で3人が進む道が決定的に分かれた印象です。

冠葉は陽毬を助ける為にあらゆる手段を使い、
陽毬は冠葉を止める為に冠葉と組織に接触する。
晶馬は家族ごっこを解消して、未だに迷っている状況に見えます。
果たして、3人が再び家族に戻れるか。再生できるか。
私の中ではただ高倉家に3人が戻って暮らすのが、再生ではないと考えてしまいます。
ここまで怒涛の展開ですと、尚更元の鞘に収まる展開が思いつかないのもあります。
よって、3人がどういう意思を持って生きていくか、死んでいくか。
ここに「家族」の有り方が問われるような気がします。
一緒にいるだけが家族ではない、血の関係だけが家族では無い事を
「輪るピングドラム」では問うていくのか。
はっきりわかるのは幾原さんは常々
「作品を通して未来を生きるモチべ―ションを問うていきたい」と答える人ですから、
展開の結果としては悲劇的な内容になるかもしれませんが、伝えたいものは
未来に生き抜くキッカケを与えてくれるものになるのではないかと確信しています。人間社会のミニマム単位であり、最も大事なものである「家族」。
この作品も残り少なくなりましたが、あと残り数回と、
その過程で描かれる「家族」の有りようを見守っていきたいと思います。
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