はじめに
みどりさんが可愛かった、たまこまーけっと最終回。
結論からいうと、最終回を見て思ったのは
たまこまーけっとは、日常が非日常を取り込んだ話である。
この日常とは、たまことたまこの関係者全て、うさぎ山商店街であり
非日常とは、つまりデラという存在そのものであるとする。
つまりたまこまーけっとは、たまこ達うさぎ山商店街が、デラを取り込む話だということだ。
この事の意味を、京都アニメーションの他作品も含めて考えてみたい。
うさぎ山商店街から出られないデラ
私が日常が非日常を取り込む話だと感じたのは、
デラがうさぎ山商店街を去ろうと人知れず立ち去っていくのに
結局、たまこ達の元へ戻ってしまい、物語が終わる展開だからだ。


(花の匂いを嗅ぎそのまま眠り、ダンボール箱に包まれ、たまこの元へ戻るデラ。)
デラは外へ出ようと自ら望んだのにも関わらず、運命はたまことデラを引き離さない。
さらにダメ押しでたまこに「初詣に行こう」と言われ「おしまい」の文字。
初詣以降が2期等があって今後描かなければ、
現状、たまこまーけっとの物語は、デラがたまこの元に留まることを選択したわけである。
商店街から抜け出したメチャ王子と、チョイさん

対照的にチョイさんが、商店街に馴染みながらも商店街に出られたのは
チョイ・モチマッヅィという、たまこの大好きなもちを否定する名前であること。
また褐色肌という、たまこやもちとは違う色だったことと見立てると
彼らは結局うさぎ山商店街とは別世界に生きる存在だったと見ると面白いのではないか。
そして色という視点で考えると、デラが白いのには意味がある。
それは白いからこそ、もち(白)やたまこ(白)うさぎ山商店街(白)と親和性があり、
商店街に取り込まれるという必然性があるという意味合いにも見立てられる。
デラは商店街から逃げられない。
京都アニメーションが志向する日常+α
話を少し変える。
「けいおん!」以降の京都アニメーションの作品には
日常を舞台とする内容に+αを志向する傾向があると見ている。


「氷菓」では、折木君やえるの日常で起こる物事を推理という+αな切り口で語られる。
折木君の推理がえるに新しいものを見せるという意味では、それが非日常的であるともいえる。
次の「中二病でも恋がしたい」では、勇太の日常に中二病に染まる六花が現れる。
そして中二病とありきたりの日常の境界線が描かれる。
「中二恋」では中二病が+αに相当すると思う。

そんな「氷菓」「中二病でも恋がしたい」という二つを踏まえて、
たまこまーけっとは、デラという人語を解し喋る非現実な鳥が現れる。
まさに非日常そのものともいえるキャラクターを出してきた。
「氷菓」でも「中二恋」の+αでも、こんなに非現実的な存在はいない。
デラは京都アニメーションなりの日常+αに関して、一歩踏み出した存在だと思うし、
たまこと共にこの作品の世界観を担うキャラクターだ。
非日常(デラ)を取り込む日常(たまこ・商店街)
そんなデラは上記で述べたように、
たまこ達とうさぎ山商店街に取り込まれ物語は終わる。
つまり、デラという非日常をたまことうさぎ山商店街の日常は受け入れたのだ。
むしろ、たまこが別れを寂しがるよう、なくてはならない存在なのだ。
それは、繰り返すが、デラがたまこに戻ってきてしまったオチでわかる。
デラも日常になった、うさぎ山商店街の一員になったのだ。

(デラの走るシーンは今シリーズのクライマックス)
こうした非日常を取り込み、日常にしてしまう意味では
日常という存在の強固さと強さを感じさせた作品が、たまこまーけっとである。
まとめ
改めて、京都アニメーションが非日常的な存在を直接登場させて
日常を描く事の意味を問い直した作品が、たまこまーけっとであったことがわかる。
押井守さんが自分の作品を「犬の視点で人間を描く」みたいな話をたまにするが
もしかするとたまこまーけっとは鳥の視点で人間を日常を描いた作品なのかもしれない。
そんなたまこまーけっとも終わり、
京都アニメーションは改めて日常の意義を本作を問いかけたわけだが、
これを踏まえて、

「中二恋」の2期が、どういう日常+αを問題提起してくるのかが興味深い。
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