逆襲のシャアとF91に存在する四人の富野由悠季 

はじめに

「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」と「機動戦士ガンダム F91」には共通点がある。
それは作中に富野由悠季監督自身を投影する存在が
二人(計四人)いて、大きく物語に関わる点である。

逆襲のシャアではシャアとアムロの二人。
F91ではカロッゾ・ロナ(鉄仮面)とシオ・フェアチャイルドの二人が該当する。
この各二組の関係と富野監督の関係について考えてみたい。

逆襲のシャアの二人の富野由悠季-シャアとアムロ

まず逆襲のシャアの二人について。

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アクシズを落とし人類を粛清しようとする、性急的なシャア。
一方で人類にシャアほど絶望はしていない、漸進的なアムロ。

富野監督にとってシャアは自身の理想の投影であり、アムロは現実の投影である。
そしてアクシズを巡り、理想のシャアと現実のアムロの二人が
せめぎ合うのが、逆襲のシャアの根本的な構造だ。

まず富野監督の理想はシャアを見る限り、組織のトップになり君臨したいと推測できる。
例えるならサンライズのトップとして、ガンダムの全権を握りたい。
ただ現実は、自身をアムロのような現場のエースパイロットでしかないと思っていて、
それは逆襲のシャアの映像制作部門の長でしかない、と己を見ていたのだろう。

また富野監督が担当する役職をシャアとアムロに当てはめた場合、
シャアは原作・もしくは脚本を書く富野監督
アムロはコンテマンとしての富野監督、と置き換えられるかもしれない。

富野監督は原作者・脚本家として作品を書いているときは
アクシズを地球に落とし「人類は粛清されねばならぬ」と
シャアのように思いつつ、コンテを切る段階では
「なぜ人類の粛清などと、核の冬が来るぞ」とアムロのように思っていたのかもしれない。

いづれにせよ逆襲のシャアは、理想のシャアと現実のアムロがせめぎ合う。
富野監督も作品を描きつつも常にせめぎ合っているのだろう。
そして簡単に決着がつかないからこそ、魅力的なのだと思うし、
富野監督が抱く理想と現実の狭間にある苦悩が、ファンの心を掴んで離さない。

F91の二人の富野由悠季-カロッゾ・ロナとシオ・フェアチャイルド

次にF91の二人について。

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セシリーフェアチャイルドの実父のカロッゾ・ロナ。
そして義父のシオ・フェアチャイルド。

逆襲のシャアとアムロが富野監督の思想/心情の投影であるなら
F91の二人は、父親としての富野監督を投影したものだろう。

前に、石森達幸さんの訃報を受けて-ドバ・アジバと富野由悠季と二人の娘 という記事を書いた。

記事の趣旨は、「伝説巨神イデオン」のドバ・アジバ総司令は富野監督。
娘のハルルやカララは富野監督の娘達であり、ドバとハルル・カララのやり取りは、
当時の富野監督が幼い娘達が成長した姿をシミュレーションしながら描いたものだ、
というような事を書いた。

そしてF91はイデオンと同様に、色濃く父娘の関係を描いた作品である。
この事を踏まえると、カロッゾ・ロナとシオ・フェアチャイルドは
父親としての富野監督が色濃く反映されている可能性が高い。

まず鉄仮面ことカロッゾ・ロナ。
貴族のロナ家の婿として迎えられ、ナディアと結婚するも見放され、
人類の粛清の為に鉄仮面をつけた存在。
本編中ではその醜悪さが徹底して描かれる。

人類粛清を遂行する点、逆シャアからF91の流れを考えると
カロッゾはシャアの別の可能性である見方もできる。
その意味では当時の富野監督の理想が、反映された存在だ。

もう一人、シオ・フェアチャイルド。
文学を志すもナディアと駆け落ちし、生計の為に文学を捨てパン屋を始め成功。
しかしナディアは文学を志すシオが好きだったが、
シオが文学を捨て現実路線に走った為、ナディアはシオから離れる。
そしてシオは義娘のセシリーをロナ家に差し出し、最終的にロナ家に殺される。

ヂオの行動は生きのびる為の手段とはいえ
結果的にF91に出てくるキャラクターの中でも、一際情けない存在にも映る。
※小説版だと結末が違う

そんなシオは富野監督のキャリアの生き写しのようだ。
もともと富野監督は子供時代はロケットに憧れ、技術者志望だった。
しかし技術者になる為、工業高校を進学希望するも成績上の理由から断念。
そして大学進学し、アニメ業界へ門を叩き、今に至る。

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この富野監督のキャリアを踏まえると、
シオの文学志望は、富野監督の技術者志望に置き換えられ
パン屋はアニメ制作という置き換えができる。
※富野監督のアニメ業界の成功の象徴が、パン屋である点は面白い。

その意味では、シオは富野監督のキャリアを反映させた存在ともいえる。

ただF91では現実路線のシオが実質カロッゾに殺され、
そのカロッゾもシーブックに倒された点を踏まえると
父親としての自身を反映させた二人は死ぬべきだと富野監督は判断したのだろう。

終わりに

理想のシャアと現実のアムロ。
理想のためエゴを強化したカロッゾと生きるために現実路線を取るシオ。

逆襲のシャアとF91でそれぞれ富野監督を体現した存在が登場し、
それぞれ異なった生き方や考えを持って行動する。

逆シャアでは二人の主張がメインでぶつかりつつも、
F91では二人の存在は情けない父親像として映る。

この比較から考えると、
逆襲のシャアは富野監督が抱える二つの主義思想のぶつかりあいの話であり、
F91は主義思想以上に、富野監督自身を投影した情けない二人の父親の話でもあり
最終的にF91は家族の話であることが改めてわかってくるのである。
 
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[ 2013/06/24 19:36 ] 富野由悠季 | TB(0) | CM(0)
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