大ヒット映画、新海誠監督「君の名は」。

本作では幾度と「結び」というキーワードが語られる。
そして新海作品に通じる「喪失」の物語であった。
今回はこの「結び」「喪失」から「君の名は」を考えてみたい。
「結び」のモチーフ性
まず空の上で二つに別れた
彗星の軌道(動線)こそ、
瀧と三葉の二人の「結び」の最たる象徴だった。
※上の画像が象徴的。
また瀧と三葉でやり取りされた携帯端末のやり取り
※LINE-線-糸
糸守という「糸」の名前。
三葉が瀧に飛騨から東京へ迎う間で生まれる動線、
瀧と三葉が互いを探しに、糸守のご神体ですれ違う動線
※動線を糸に見立てる
物語最後で、瀧と三葉が互いに乗る電車ですれ違うのも、
電車を糸として見立てれば、全て「結び」の一種だと思う。
幾度も幾度も、携帯端末、二人の動線、電車、といった「結び」を通して
瀧と三葉が、組糸のように繋がっていく物語であった。
瀧の腕に付けている紐。
瀧と三葉の身体が入れ替わること。
物語の謎が、一つに結ばれ昇華し、
最後は「名前」というコードを通して、二人は「出会う」資格を得る。
過去の新海作品と君の名はにある「結び」
また過去の新海作品と「君の名は」の間での「結び」という側面もあった。
「言の葉の庭」の雪野百香里が登場(CVは花澤香菜さん)。
もしくは瀧と奥寺に見られる、年上の女性に憧れる年下の少年の関係性。
「ほしのこえ」のウラシマ効果的な、時間軸の違いで生まれる悲劇。
「雲のむこう 約束の場所」で見られた“夢からの目覚め”と符合する
瀧と三葉の入れ替わり(二人共、最初は夢だと思っていた)
「秒速5センチメートル」のラストシーンを彷彿とさせる、瀧と三葉が出会う場所。
「星を追う子供」のビジュアルを彷彿とさせる、糸守のご神体とその周辺。
最後に、瀧の家にあった新海さんが描くネコをあしらったマグカップ。
自身の過去作品のモチーフ・要素・設定と新作を「結び」つける。
その行為は集大成的ともいえるのかもしれない。
私自身、新海さんは前作の問題点を検証し、
新作に反映されるスタイルだと思っている。
作中でも一葉おばあさんがいっていた
過去の宮水家の人間には入れ替わりの現象があり、
このことを聞いた三葉が彗星の落下を教えるためにあったこと。
(一葉⇒二葉⇒三葉・四葉、という名づけ方も、繋がり「結び」を感じる)
このシーンのやりとりは、
過去の作品があったからこそ、今の作品(君の名は)があるメタファーのようにも思える。
こうしたスタイルこそ過去と新作を「結び」つけるといえるのではないだろうか。
「喪失」と「結び」
新海作品で語られる「喪失」。
「喪失」とは、手に入れられたかもしれないものを失った意味での喪失。
そして喪失を取り戻すために動く物語。
どう喪失し、どう喪失を取り戻そうとし、結局喪失心はどう決着つけるのか。
作品ごとで「喪失」の描かれ方は違う。
瀧は三葉を失っていた(糸守の崩壊=喪失)事を知り、
三葉と糸守を救ったものの(喪失を取り戻す)、
互いの存在と名前を忘れる(再び喪失)。
しかし前述した今まで瀧と三葉の二人で起こった「結び」によって
最終的に二人は出会える機会を得られたのだと思う。
「喪失」しても「結び」によって喪失からは解放される。
喪失は結びで乗り越える。そんな風に感じられた。
瀧と三葉、互いに名前を言える時が来た。
ここからが本当の二人の物語の始まり。
「結ばれたこと」を描くのではなく「結ばれるまで」を描く物語。
まとめ
「結び」とは縁でもあると思う。
飛騨のラーメン屋で瀧の絵を見たおじさんが「糸守」だと言った偶然も縁であり
過去の作品との縁があって、「君の名は」がある。
過去と現在の縁、人との繋がりという縁、こうした中に自身(新海誠さん)がいて
作品を作っているのだという決意を見せられたかのような作品だった。
瀧と三葉のお互いの思う様子に涙し、
二人が名前を呼び会える機会を与えられたことに涙した。
2010年代を代表するアニメ映画になるのではという思いと、
今後の大作オリジナルアニメ映画は新海誠さんと細田守さんが
牽引していくのではという確信を抱く作品内容だった。
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