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令和の石動雷十太―その扱いの困難性から生まれる魅力 

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「るろうに剣心」の石動雷十太。私にとってマンガの作者が、キャラの扱いに困ることを教えた存在だ。
 雷十太の作者コメントを読むまで、作者は作品作りに万能なイメージがあり、この話を知って衝撃だった。作者コメントを読み、本編を読むと最初は強キャラな感じが、回を重ねるごとに矮小化していた。読者として青紫編に後の話だから、青紫より強いもしくは同格の強さをもつのが連載モノとして理想と思うが、そうにはならなかったキャラだと思う。
 一方で全巻終わってまた読むと、技の強さ、この一点で十本刀の一部メンバーより強いと思わせる存在で、矮小化された内面と強さへのポテンシャルのギャップが著しい存在に映った。以上がマンガ版の雷十太のイメージ。

 そして2023年にるろうに剣心2度目のアニメ化。さらに作者が再アニメ化で手直対象として雷十太を挙げるインエタビュー発言。私は血がたぎった。再アニメ化を憂うものである、かそうでないか。見なければと思った。そして雷十太編を見終わり、作者の手直しは、雷十太が最後まで人を斬れない(斬らなかった)こと、剣心や薫から才能の評価と精神面のギャップの指摘、剣心の人を斬らなかった事は救いであるフォローが入ったこと。

 しかし雷十太の行動は結果的に斬らなかっただけであり、誰かを殺めた可能性がある。剣心レベルの剣客だから雷十太に不意打ちされても、飛飯綱の連続でも剣心がやられなかっただけである。由太郎が腕だけの傷で済んだのは運だといえる。また不意打ちや弥彦を人質に取る行為は、やはりいただけない。よって剣心が言葉でフォローしても取り繕えない面もあり、雷十太の扱いの困難さを改めて思い知ることになった。Cパートの少女・老婆を斬れず、地蔵を斬った。その地蔵の首を元に戻したらにっこりしていた描写は、雷十太に剣客として再起ができるお膳立てをして終わらせたと感じた。

 石動雷十太の魅力は、作中での扱いの困難さから生ずる存在感だと思う。殺人剣至上主義だが、人を斬ったことはない。技は強いが、精神がもろい。それゆえに作者が扱いに困ったが、作品で見せたブレるキャラ像が雷十太の魅力だ。

 マンガでキャラが立つという言葉がある。代表例は同時期のジャンプマンガ「ダイの大冒険」のポップ。編集側からポップ殺しましょうという意見もあったが、原作側は反対しポップはダイ大を代表するキャラに成長した。ポップは作者の狙いが成功し、読者にも支持された好例だ。逆に石動雷十太は作者の狙いは失敗、つまりキャラ立てできなかったが、それゆえに狙いから外れたことで生まれた魅力があると感じる。他の作品でもキャラ立てに失敗しているような存在も見受けられるが、雷十太のような狙いから外れて生まれる魅力を感じるキャラもそうはいない。
 雷十太の魅力はその外面的な強さとは裏腹の精神的弱さであり、ネガティブさ・弱さの問題は多くの人も抱える問題だからではないだろうか。斎藤一の強さに心が響くように、雷十太の弱さに心が響いてしまうのだ。
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[ 2023/11/03 18:40 ] ニュース | TB(0) | CM(0)
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