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アニメにおける脚本の意味 

ついったーでアニメにおける脚本の在り方について興味深い発言が・・・

>原作に対して演出チームで脚本を起こし、同じメンバーでコンテを起こして演出する方が、
>経済的に合理的だと考えてる。最近とみに感じるのは、圧倒的に面白いオリジナルを除き、
>シリーズ構成や各話脚本なんてのは、たまに原作者さんをゲストで呼んで「物語」を
>成立させた方が質的向上に繋がる。

>事実としてシリーズ構成はプロデューサさんがやれるし(作品によってはプロデューサさんが
>実質的にやっている)、各話の脚本は、金ではなく最低限の時間が許されれば、
>コンテ・演出家でも的確にやれるしやっている。脚本家の必要性がわからん。

>脚本がなくてもコンテは切れる。時間が許すのであれば、好きな場面の作画もできる。
>といった程度の発想は誰にでもできると信じたい。「脚本家」さんに作品の質が左右される
>という考え方は、かなりの程度で非=アニメ的だと思う。

>ゲームや漫画や実写の世界はわからないけれども、テレビアニメの世界で
>「脚本家がどうしても必要だ、もうわれわれのアイディアや思考力は尽き果てた」
>なんて戯れ言を生真面目にのたまう演出家には会ったことがない。

>どうしても優秀な脚本家が必要な作品の需要は確かに存在するけれども、
>現状にあって、すべての作>品のすべての挿話に脚本家が必要であるわけではなく、
>場合によっては「無駄遣い」じゃないか、と考えています。

発言者は現場の人らしい。

例えば宮崎駿は、コンテから先に作業して脚本は後にしているが
それは極端に言えば声優の演技でホンが必要だから作ってるだけだからだろう。

私も安易に使っている時もあるが、脚本家やシリーズ構成って
現場ではどんな位置にいて、どれぐらい影響力を及ぼしているか
良く分かってない事を痛感し、アニメにおける脚本の意味を考えないとと思った。
 
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[ 2009/10/07 06:44 ] コラム | TB(0) | CM(4)
面白いテーマですね。自分はそれでもアニメ見る時に脚本の要素はけっこう重視しますが、作品やエピソードによっては脚本家がいらないというのはうなずける。ましてやシリーズ構成においては、文筆家よりもアニメーターやプロデューサーのほうが、作品をまとめるチカラが優れていてもおかしくはないですね。

ひとつには、あえて脚本家に仕事を振ることで、分業制にして各人の負担を減らしてるというのはあるんじゃないかとは思います。とくに、がっつりストーリーを組む必要のないアニメでは。現場を知らないので適当な推論ですが。

逆に言えば、脚本が軽視されている(?)現状で、しっかりと個性や実力をアピールできている脚本家は評価するべきだし、そういう優秀な人の存在が光るジャンルであるからこそ、アニメに脚本家が関わっているように思います。

いろんなブログを見てて、倉田氏や花田氏のような有名な脚本家の仕事以外、ほとんど脚本に注目しない方が多いように見受けられます。自分は、もう少し各作品における脚本の存在に注目する見方ができるようになればと思っています。

[ 2009/10/07 11:15 ] [ 編集 ]
紹介した人は脚本がどうであれ、コンテや演出の出来が作品の質を左右する立場です。
私もその立場ですね。それは富野や出崎は「コンテで8割方アニメの出来が決まる」
という持論だったり、作業工程を考えるとコンテさえあれば作画できるから、コンテは重要かなと。

基本的にアニメを見る時はスタッフなんて気にしなくて良いと思います。
私はそれでも気にしてしまうのは置いといて下さい。
アニメは集団作業なので作品の成功を個人に還元できないからです。
そして文学のように作品論=作家論で語るには危険すぎる所があるからです。

つまり脚本が良いと思われる部分でも、実はコンテ担当の機転だったり
その辺りの真相は実際にはわからない。
覚えて頂きたいのは、日本のアニメは脚本を無視してコンテを切る事が日常茶飯事だった
時代がある事。今でもそういう作品はあるかもしれません。
 
[ 2009/10/07 22:14 ] [ 編集 ]
なるほど、勉強になります。コンテの重要性は理解していたつもりでしたが、「日本のアニメは脚本を無視してコンテを切る事が日常茶飯事だった時代がある」という事実は頭にありませんでした。

ちょっと話は違うかもしれませんが、作り手と視聴者では、意識としての脚本やシリーズ構成の存在の大きさが違うのでは、と思います。どう見ても映像的に優れているのに、話の内容がイマイチだと判断して「微妙な出来だった」という意見が語られることが非常に多いように見えますね。もちろんその逆に、映像表現にそれほど見るべき部分が少なくても、話が面白ければ”良い出来”と言う場合も多い。

先日の「映像>脚本>演技>音楽」の話もそうですが、どうも、作り手が気合いを入れたがる部分と、視聴者が注目点したがる部分に差異があると、最近思っています。今後のTVアニメの展開において、非常に興味を持っているテーマです。
[ 2009/10/09 01:21 ] [ 編集 ]
例えば、富野監督とかもコンテ作業段階で脚本を大きくいじる事もあるみたいです。
脚本無視という言い方は少し誇張しましたが、多かれ少なかれ有名な監督はこの傾向にあります。

>作り手と視聴者では、意識としての脚本やシリーズ構成の存在の大きさが違う
脚本というと、視聴者はその人が話を作ってるんだと思いますからね。
ただ、映像は最終的に脚本を何枚書こうが映像にはならないんですよ。
アニメであれば、絵を何千枚と用意をしないといけない。
そして、その何千枚の絵のつなぎ方や・大まかなレイアウト等、
映像化する為の指示・設計するコンテが極めてアニメでは重要です。

だから語弊があるかもしれませんが、例えば演出家やアニメーターというのは
物語を描くのが仕事ではなく映像を成立させる、アニメートさせるのが仕事だと思います。
ただ、これらは作り手のインタビューやコメンタリーを聞いて考えた私の意見です。

一方で、視聴者は面白い話を望んでいるのもわかります。私も望んでいます。
ただ面白い話というのは本当は誰がそうさせたのか?
面白かった話というのも、実は脚本だけの力ではなく、コンテや演出の力かもしれないのです。
極端に言えば、ダメな脚本をコンテ・演出が面白い話に見せている可能性もあります。

あと最終的には、アニメは集団作業なので特定の個人に面白さの理由を還元するのは
できないと思います。コンテにしても脚本にしても、様々なディスカッションを経て
作られているはずですから、様々な意見(スポンサーやテレビ局)も反映されてます。
そこが作家論=作品論という見方も可能な文学とは違う領域ですね。

だから面白い話を求めるというのは、最終的には脚本というより「原作」の領域で
語られる部分なのかもしれません。
[ 2009/10/09 06:39 ] [ 編集 ]
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